常陸の地に残る親鸞の教え

 夏、真っ盛りの7月の日曜日、栃木県真岡市にある「専修寺(せんじゅじ)」に行ってきた。親鸞が建立した唯一の寺と言われ、京で本願寺8世「蓮如」によって本願寺教団が大発展を遂げつつあった室町時代中期(ちょうど応仁の乱の頃)、今の三重県津市一身田に移ってしまった浄土真宗「高田派」の本山でもあったところだ。

 延暦寺での修業に限界を感じ、比叡山を下りた親鸞が、京・吉水(知恩院の辺り)で「専修念仏(せんじゅねんぶつ)」を唱えていた法然の弟子となって5〜6年後の35才の時、専修念仏の広がりに危機を覚えた南都北嶺(奈良と比叡山の仏教勢力)が朝廷に讒訴したことで、念仏を停止させられ、師の法然は土佐に、親鸞は越後に流罪となった。

 時代は、鎌倉で第3代将軍・源実朝による政(まつりごと)が始まって5年目、第2代執権・北条義時の3年目である。ぞくに鎌倉新仏教と言われる6宗の内、時宗日蓮宗臨済宗曹洞宗はまだ世に出ていない。

 そして流罪の4年後、親鸞は赦免されたものの京へは帰らず、44才の頃から約20年間、常陸国茨城県)・稲田の地に草庵を結び、そこで、布教を続けたのである。京へ戻ったのは63才と言われる。そして90才で入滅した。

 さて、専修寺は総門、楼門、如来堂が一直線に並ぶ一風、変わった形式だ。如来堂には、長野・善光寺から迎えたという秘仏「一光三尊仏」が奉られ、17年に一度、ご開帳がある。それにしても大伽藍だ。しかし派手さはなく、どちらかと言えば鄙びた印象だ。親鸞の教えが、長い時間を経てしっかり地域に根付いているといった風情を感じた。

 親鸞の教え、いわゆる初期の浄土真宗は、稲田のある常陸から下総(千葉県)や下野(栃木県)などに広がっていった。各地に親鸞の弟子が生まれ、次第に直弟子たちを中心に門徒集団が生まれた。下総横曽根茨城県常総市)の性信を中心とする横曽根門徒、下野高田(真岡市)の信仏・顕智を中心とする高田門徒常陸鹿島の順信の鹿島門徒、さらには布川門徒武蔵国の荒木門徒陸奥の浅香門徒、伊達門徒である。

 後に、親鸞の言葉をまとめた「歎異抄」を表した弟子の唯円は、今の水戸辺りの出であったそうだし、性信や信仏、顕智などの有力門弟は「二十四輩(にじゅうしはい)」と呼ばれ、この二十四輩が開祖となった寺院は、第1番性信房・報恩寺(東京都東上野)から第24番唯円房・本泉寺(茨城県常陸大宮市)まで関東一円に建立され、今に続く。

 そこで、疑問が生じる。20年近くも過ごした常陸の国を、親鸞はどうして去ったのだろう?

 一説には、教祖として崇められることへの嫌悪感、また肥大化した門徒集同士による門徒の奪い合い、外的には「日蓮」や鎌倉幕府による念仏攻撃が挙げられるが、私は当時、数多くの仏教書を所蔵していた鹿島神宮の数多(あまた)の書籍を読み終えたことでの、一種の達成感とでも言える感慨があったのではないだろうか、と思う。

 実際、京に戻った親鸞は「教行信証」の完成を始め、教理の探求と研鑽に邁進するのみで30年間、著述活動以外、布教とは全く無縁であった。そして、そうした生き方に伴う親鸞の極貧の生活を、生まれ故郷の越後に戻った妻の恵信尼、また関東の信徒が、いわゆる「仕送り」によって支えた。

 こうして考えて来ると、親鸞の教えや浄土真宗の初期の理念というものは当然、常陸の国のその風物の中に、何百年にも渡り溶け込んでいるのではないだろうか。そんな風に考えてしまう。たとえ高田派が、勃興し始めた本願寺教団に対抗するため伊勢に拠点を移してもだ。

 「蓮如」以降、浄土真宗では「親鸞の血脈を継ぐ」本願寺教団が隆盛を極め、本願寺11世「顕如」が指導した織田信長との戦いの後、教団は一旦、紀州に退去したものの、後を継いだ次男の「准如」が秀吉に寄進された地に本願寺を再興(西本願寺浄土真宗本願寺派)した。またその後、本願寺勢力の分断を狙った家康によって、未だ紀州で抵抗を続けていた長男「教如」に七条烏丸の地が与えられ、それが、今の東本願寺真宗大谷派)に繋がる。

 一昨日、こんなニュースが流れた。「浄土真宗本願寺派の大谷光淳(こうじゅん)門主(39才)の就任を披露する『伝灯奉告法要』が10月1日、本山の西本願寺で始まった。光淳門主が御影堂で宗祖・親鸞の木像を前に決意を表明した。光淳門主は14年6月、父・光真・前門主(71才)の後を継ぎ、第25代門主に就任した」と。そして「同派は、全国に1万の末寺がある国内最大級の伝統仏教教団である」とも。

 現在、浄土真宗はいずれも親鸞の血脈を継ぐ東西の本願寺教団が圧倒的である。家康によって興った東本願寺に対抗するため、江戸時代初期、西本願寺の幕府への対応機関として置かれた「築地本願寺」。この築地本願寺ですら40年近く前、西本願寺を離れ、独自の宗教法人となるなど、組織は巨大化する一方で、教義などはなかなか見えてこない。

 だからこそ素朴に、初期の親鸞が何を考え、何を諭していたのか。二十四輩に代表される関東の鄙びた浄土真宗の寺院にこそ、そのヒントがあるのではないか、ますますそんな風に考えてしまう。今秋には、稲田の草庵跡に建立されている「西念寺」に行くつもりだ。「剛君、道案内をよろしく頼むヨ」。

 それはそうと、小説によって改めて親鸞ブームを起こした五木寛之氏(84才)が、大河小説「青春の門」を来年1月から「週刊現代」で、23年振りに再開するそうだ。でも、できれば「青春の門」の続編より、龍谷大学で学んだ経験を活かし、鎌倉新仏教の草創から普及への道のりを、開祖の人物像も含めて小説にしてほしいな(これは難しいか?)。