「お伊勢」は「お多賀」の子でござる♪

 まだ私が小さかった頃、母親が時々「お伊勢へ参らばお多賀へ参れ♪ お伊勢はお多賀の子でござる♪」と、俗謡を口にしていたのを覚えている。当時は意味も分からず、また成人してからは思い出すこともなかった。

 しかし最近、改めて「古事記」(真福寺本)を読む中で、「伊耶那岐神(イザナギノカミ)」が「多賀大社」(滋賀県多賀町)で祀られていることを知り、この俗謡の意味に思い当たった。「伊勢神宮」の祭神は、言わずと知れた「天照大御神アマテラスオオミカミ)」。そして、このアマテラスはイザナギの長姉である。さしずめ、この俗謡は「娘だけでなく、たまには父神のおわします『お多賀さん』にもお参りしなさいよ」といったところなのだろう。

 私の生家は、多賀大社から車で30分ほどの所にある。子供時代、初詣を始め何度もお参りしたものだが、当然のことながらその祭神にまで気が回ることもなく、成人後は生家を出たこともあり、足が遠ざかっていた。今、多賀大社にはイザナギと共に「伊耶那美神(イザナミノカミ)」も祀られている。できれば近々、行ってみたい。今度は気を引き締めて。

 ただ一方で「日本書紀」などでは、イザナギが降り立った地は、近江の多賀ではなく、イザナミとの「国造り神話」で最初に生み出した島、淡路島ともされており、それを支持する歴史学者も多い。さらに多賀大社は、古事記日本書紀が完成する奈良時代以前に創建されたと言われており、元々は地元の豪族・犬上氏を祀る社(やしろ)であったという。ちなみに犬上氏は、第1次遣唐使・犬上御田鋤(いぬかみのみたすき)を出した一族として有名である。で、あるが故に、これまで多賀大社は、伊勢神宮のように遇されることがなかったのであろうか?

 そこで、天皇家の「皇祖神」とされるアマテラスは、どうやって誕生したのか?古事記では、こんな話が展開されている。

 まず、高天原(たかまのはら=天上世界)に成った神々の中から、初めて人の形をした男神イザナギと女神・イザナミが生まれ、この2柱の神は、先立つ神々から「国造り」を命じられ、まぐわう(夫婦の交わり)ことで淡路島、四国、それから隠岐の島、九州、壱岐の島、対馬佐渡島、そして最後に大倭豊秋津島(おおやまととよあきつしま)、いわゆる本州が生まれた。この八つの島を「大八島国(おおやしまのくに)」という。この国(わが国)である。

 そして国ができたことで、2神は様々な神を生み始める。海の神、川の神、水の神、風の神、山の神、土の神、食物の神・・・・・。やがて火の神を生んだ時、イザナミは陰部(ほと)に大火傷を負い、それがもとで身罷ってしまった。イザナミのことを忘れられないイザナギは、イザナミを連れ戻そうと黄泉(よみ)の国にまで行き、そこで「絶対に見ないでほしい」と言うイザナミの願いに反して、醜く変貌したイザナミの姿を見てしまい、怒ったイザナミの代わりの魔物に追われ、やっとのことで黄泉比良坂(よもつひらさか=出雲にある揖屋坂であろう)から地上に逃れるのである。

 地上に戻ったイザナギは、日向国の橘の尾門(たちばなのおど)という河口で身を清める。いわゆる「禊ぎ」を行った。まず左目を洗った。そしてアマテラスが生まれた。太陽の女神である。天を治める。次ぎに右目を洗い「月読命ツクヨミノミコト)」が生まれた。月の男神で夜の闇を治める。そして鼻を洗って「須佐之男命(スサノオノミコト)」、海を治める嵐の神が生まれた。従って、アマテラスはイザナギの長姉ということになるのだ。

 古事記では、もう一つの話として、スサノオの子孫である「大国主神オオクニヌシノカミ)」が、治めていた出雲の地をアマテラスに譲る「国譲り神話」の物語があるが、これによって葦原中国(あしはらのなかつくに=地上世界)の全てを知らす(=治める)ことになったアマテラスは、孫の「邇邇芸命ニニギノミコト)」に、それを命じる。孫が地上に降り立ったので「天孫降臨」である。日向の高千穂の地に降臨した。

 降臨に際して、アマテラスは3種の神器をニニギに与え、ニニギはこの内「御鏡(みかがみ)」を五十鈴宮(いすずのみや=現在の伊勢神宮の内宮)に祀った。これが、伊勢神宮の起源となる。

 そして、このニニギの4代後の子の1人が「神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコノミコト)」。兄たちと共に「東征」し、紀伊・熊野から大和(奈良)に入ったイワレビコは、紀元前660年1月1日、橿原の地で初代「神武天皇」として即位するのである。ざっと、こんな話である。お隣・中国は春秋戦国時代孔子孟子の時代である。始皇帝が全土を統一する400年ほど前のことだ。

 さて昨日から、今上天皇の「生前退位」などを議論する有識者会議が始まったが、論点ではないものの、今上が退位した後は京都に移るという案があるらしい。イヤ〜、これには驚いた。とは言っても、天皇家が東京に居続ける根拠は、どこにも無いのだが。

 これに関連したテレビインタビューで、和歌の才で天皇家に仕えてきた京都の「冷泉家」の25代・女性当主が「『ちょっと行ってくる』と言って明治天皇は出て行かれた。それからズッとお留守番をしています」と語っていた。150年近いお留守番である。気が遠くなりそうだ。

 そういえば、冷泉家の先代当主は数十年前に「この前の戦(いくさ)で貴重な文物が随分と無くなりました」と語り、誰もが、それは、明治維新に繋がる「鳥羽・伏見の戦い」のことであろうと思っていたら、実は「応仁の乱」のことであった、というとんでもない長い時間軸を見せられたことに、唖然とした思いがある。

常陸の地に残る親鸞の教え

 夏、真っ盛りの7月の日曜日、栃木県真岡市にある「専修寺(せんじゅじ)」に行ってきた。親鸞が建立した唯一の寺と言われ、京で本願寺8世「蓮如」によって本願寺教団が大発展を遂げつつあった室町時代中期(ちょうど応仁の乱の頃)、今の三重県津市一身田に移ってしまった浄土真宗「高田派」の本山でもあったところだ。

 延暦寺での修業に限界を感じ、比叡山を下りた親鸞が、京・吉水(知恩院の辺り)で「専修念仏(せんじゅねんぶつ)」を唱えていた法然の弟子となって5〜6年後の35才の時、専修念仏の広がりに危機を覚えた南都北嶺(奈良と比叡山の仏教勢力)が朝廷に讒訴したことで、念仏を停止させられ、師の法然は土佐に、親鸞は越後に流罪となった。

 時代は、鎌倉で第3代将軍・源実朝による政(まつりごと)が始まって5年目、第2代執権・北条義時の3年目である。ぞくに鎌倉新仏教と言われる6宗の内、時宗日蓮宗臨済宗曹洞宗はまだ世に出ていない。

 そして流罪の4年後、親鸞は赦免されたものの京へは帰らず、44才の頃から約20年間、常陸国茨城県)・稲田の地に草庵を結び、そこで、布教を続けたのである。京へ戻ったのは63才と言われる。そして90才で入滅した。

 さて、専修寺は総門、楼門、如来堂が一直線に並ぶ一風、変わった形式だ。如来堂には、長野・善光寺から迎えたという秘仏「一光三尊仏」が奉られ、17年に一度、ご開帳がある。それにしても大伽藍だ。しかし派手さはなく、どちらかと言えば鄙びた印象だ。親鸞の教えが、長い時間を経てしっかり地域に根付いているといった風情を感じた。

 親鸞の教え、いわゆる初期の浄土真宗は、稲田のある常陸から下総(千葉県)や下野(栃木県)などに広がっていった。各地に親鸞の弟子が生まれ、次第に直弟子たちを中心に門徒集団が生まれた。下総横曽根茨城県常総市)の性信を中心とする横曽根門徒、下野高田(真岡市)の信仏・顕智を中心とする高田門徒常陸鹿島の順信の鹿島門徒、さらには布川門徒武蔵国の荒木門徒陸奥の浅香門徒、伊達門徒である。

 後に、親鸞の言葉をまとめた「歎異抄」を表した弟子の唯円は、今の水戸辺りの出であったそうだし、性信や信仏、顕智などの有力門弟は「二十四輩(にじゅうしはい)」と呼ばれ、この二十四輩が開祖となった寺院は、第1番性信房・報恩寺(東京都東上野)から第24番唯円房・本泉寺(茨城県常陸大宮市)まで関東一円に建立され、今に続く。

 そこで、疑問が生じる。20年近くも過ごした常陸の国を、親鸞はどうして去ったのだろう?

 一説には、教祖として崇められることへの嫌悪感、また肥大化した門徒集同士による門徒の奪い合い、外的には「日蓮」や鎌倉幕府による念仏攻撃が挙げられるが、私は当時、数多くの仏教書を所蔵していた鹿島神宮の数多(あまた)の書籍を読み終えたことでの、一種の達成感とでも言える感慨があったのではないだろうか、と思う。

 実際、京に戻った親鸞は「教行信証」の完成を始め、教理の探求と研鑽に邁進するのみで30年間、著述活動以外、布教とは全く無縁であった。そして、そうした生き方に伴う親鸞の極貧の生活を、生まれ故郷の越後に戻った妻の恵信尼、また関東の信徒が、いわゆる「仕送り」によって支えた。

 こうして考えて来ると、親鸞の教えや浄土真宗の初期の理念というものは当然、常陸の国のその風物の中に、何百年にも渡り溶け込んでいるのではないだろうか。そんな風に考えてしまう。たとえ高田派が、勃興し始めた本願寺教団に対抗するため伊勢に拠点を移してもだ。

 「蓮如」以降、浄土真宗では「親鸞の血脈を継ぐ」本願寺教団が隆盛を極め、本願寺11世「顕如」が指導した織田信長との戦いの後、教団は一旦、紀州に退去したものの、後を継いだ次男の「准如」が秀吉に寄進された地に本願寺を再興(西本願寺浄土真宗本願寺派)した。またその後、本願寺勢力の分断を狙った家康によって、未だ紀州で抵抗を続けていた長男「教如」に七条烏丸の地が与えられ、それが、今の東本願寺真宗大谷派)に繋がる。

 一昨日、こんなニュースが流れた。「浄土真宗本願寺派の大谷光淳(こうじゅん)門主(39才)の就任を披露する『伝灯奉告法要』が10月1日、本山の西本願寺で始まった。光淳門主が御影堂で宗祖・親鸞の木像を前に決意を表明した。光淳門主は14年6月、父・光真・前門主(71才)の後を継ぎ、第25代門主に就任した」と。そして「同派は、全国に1万の末寺がある国内最大級の伝統仏教教団である」とも。

 現在、浄土真宗はいずれも親鸞の血脈を継ぐ東西の本願寺教団が圧倒的である。家康によって興った東本願寺に対抗するため、江戸時代初期、西本願寺の幕府への対応機関として置かれた「築地本願寺」。この築地本願寺ですら40年近く前、西本願寺を離れ、独自の宗教法人となるなど、組織は巨大化する一方で、教義などはなかなか見えてこない。

 だからこそ素朴に、初期の親鸞が何を考え、何を諭していたのか。二十四輩に代表される関東の鄙びた浄土真宗の寺院にこそ、そのヒントがあるのではないか、ますますそんな風に考えてしまう。今秋には、稲田の草庵跡に建立されている「西念寺」に行くつもりだ。「剛君、道案内をよろしく頼むヨ」。

 それはそうと、小説によって改めて親鸞ブームを起こした五木寛之氏(84才)が、大河小説「青春の門」を来年1月から「週刊現代」で、23年振りに再開するそうだ。でも、できれば「青春の門」の続編より、龍谷大学で学んだ経験を活かし、鎌倉新仏教の草創から普及への道のりを、開祖の人物像も含めて小説にしてほしいな(これは難しいか?)。

次は家康「討ち死に」ですか?三谷さん

 先日(9月25日)、放映されたNHK大河ドラマ真田丸」を観ていて、「エッ?」と思ったのは、私だけではないだろう。片手間に観ていたので細部はうろ覚えだが、いわゆる家康と秀頼の二条城での対面の際、秀頼の警護役を買って出た加藤清正の、その豊臣寄りの姿勢を嫌った家康によって「暗殺された」という展開に、である。

 画面では、家康の意を受けた家臣の服部半蔵が清正とすれ違う際、清正の首筋に何かを仕掛け、その後、ナレーションが「この2カ月後、清正は領国・肥後に帰る途中、急死するのである」と、思わせぶりに流れた。二条城での対面も、清正が警護に就いたのも歴史上の事実である。しかし、清正の死が家康による暗殺とは!?

 実は、8月21日にオンエアされた「真田丸」でも、秀吉亡き後の有名な史実である、清正や福島正則ら7将による「石田三成襲撃事件」がスルーされ、まったく知られていない、徳川派と反徳川派の京・伏見における武力衝突直前のにらみ合いが採り上げられた。

 この「にらみ合い」については、脚本家の三谷幸喜氏が、朝日新聞・夕刊に連載しているコラム(9月1日付け)で、「お馴染みのシーンはあまり描きたくない」と、その意図を明かし「知られざるエピソードを、史実を基に、独自の解釈を入れながらドラマ化する喜び」「想像しながら物語を組み立てる作業はとても楽しかった」と語っている。そして「マイナーな出来事なので、僕が史実を捏造したと思っている視聴者も多かったみたい」と、狙い通りの反響に「してやったり」との思いも滲ませている(実は、私も三谷氏の捏造だと思っていた)。

 と、すると、今後の「真田丸」のストーリー展開だが、あの三谷氏のこと、ひょっとすると「大坂夏の陣」で信繁(幸村)に鋭く攻め入られ、あやうく命を落とす寸前にまで追い詰められたという事実を基に、奇説として語られる「家康討ち死に」を匂わせるのではないだろうか、そんなことを考えてしまう。

 「ある時期」からの家康は別人であったとする説は、大きく分けて3つある。

 その一つが「大坂夏の陣での討ち死に説」であり、
 もう一つが「桶狭間の戦いの翌年いわゆる守山崩れの時に家臣に刺殺され、その混乱に乗じた『浪人』世良田二郎三郎元信が家康を詐称し、徳川を乗っ取ったとする説」、
 そして「関ヶ原の合戦中に暗殺され、以後は『影武者』であった世良田二郎三郎元信が家康の身代わりとなって幕府を開いたとする説」である。

 この中で一番、信憑性があると言われているのが「大坂夏の陣での討ち死に説」である。

 前年の「冬の陣」に続く慶長20年(1615)の「夏の陣」の5月7日、家康は幸村の奇襲攻撃を受け、自害を覚悟しつつ堺方面に遁走する。その途中で葬列に出会い、死人になり代わって棺桶に入り、逃げ急いだのだが、紀州方面に出陣中だった後藤又兵衛の部隊と遭遇。不審を抱いた又兵衛は、いきなり槍で棺桶を突き刺した。そして又兵衛は、棺桶の中までは確認せずに去っていった。棺桶は急ぎ、堺の「南宗寺」まで運ばれたが、すでに家康は絶命していた。

 家康の死は極秘にされ、よく似た顔立ちの農民が身代わりに立てられた。しかし、秘密の露見を恐れた徳川重臣によって、翌元和2年(1616)4月17日に毒殺された。死因は、鯛の天ぷらを食しての食中毒と発表された。そして元和3年4月8日、南宗寺に仮埋葬されていた家康の遺体は、駿府久能山から日光東照宮へ改葬するという名目で日光に運ばれ、改めて祭られた。こんな話である。

 南宗寺は元々、阿波・三好家の菩提寺である。三好長慶が父・元長のために創建した。墓苑には千利休の墓もあるが、徳川家とは特に深い繋がりはない。

 しかし後に、2代将軍・秀忠や3代将軍・家光が、どうしてわざわざ参詣に訪れたのだろうか?同寺の正門から北へ通じる道を、どうして「権現坂」と呼ぶのか?幕府直轄地である堺の堺町奉行が歴代、どうして着任後に詣でたのか?そして何よりも、その後、同寺域内に「東照宮」が建立されたことが最大の疑問となり、これらが「大坂夏の陣での討ち死に説」に信憑性を与えるのである。

 といっても、これ以上の証拠はない。逆に、家康を槍で突いた又兵衛は、前日の5月6日の「道明寺の戦い」で戦死した、というのが正史である。もっとも又兵衛については、後の「島原の乱」に軍師として加わっていたという伝説があるぐらいで、討ち死にしたという説もあやふやなものだ。さてさて。

 ところで、映画「清洲会議」で、妻夫木聡が演じる織田信雄(のぶかつ)が海辺での「かけっこ」の際、Uターン場所を通り過ぎて、なお前に走り去るシーン。これまで「たわけ」だったと言われていた信長・次男の信雄を、これほど見事に、比喩的に描いたものはないと、私は三谷氏の脚本に笑いを誘われ、実は三谷氏は、このシーンこそ映像化したかったのではないだろうか、と思ったくらいである。

そんな三谷氏が書く「真田丸」の今後のストーリー展開。「家康の討ち死に」となるのか、とても気になる。

吉野に続くもう一つの天皇家

 「今の(昭和)天皇は偽天皇であり、自分こそ正真正銘の天皇だ。現天皇を追放し、自分を即位させてほしい」。終戦直後の1945年(昭和20年)末、GHQ(連合国軍総司令部)に、こんなことを訴え出た人物がいた。

 そして、GHQが翌年1月、この訴えを公表したことで、内外に一大センセーショナルを巻き起こした。訴え出たのは、名古屋市千種区洋品雑貨商を営んでいた「熊沢寛道」なる人物。彼が自らを天皇と主張する根拠は、「天皇家の正系である後亀山天皇より19代目の子孫で、証拠の系図などもある」というものだった。

 後亀山天皇は「建武の新政」で知られる後醍醐天皇が、足利尊氏に京都を追われ、奈良・吉野の地に開いた「南朝」の後醍醐→後村上→長慶に続く4代目の天皇で、「皇統譜」では神武天皇以来、第99代目となる。

 歴史的には、後亀山は1392年、対立していた「北朝」と和議を結び、神璽を譲って合一(相互に皇統に就く約束)し、北朝後小松天皇に譲位した。そしてこれ以後、約60年続いた南朝系の皇胤は断絶した(南北朝時代の終焉)というのが、歴史の教科書では定説となっている。

 しかし、熊沢の主張はこう続く。「後小松天皇の父親は足利義満室町幕府第3代将軍)で、それ故、天皇家の皇統はそこで断絶している。従って、北朝系の血筋の昭和天皇は偽天皇にほかならず、また南朝系の皇統は水面下で連綿と継承されており、南朝系こそ正統の天皇家だ」。

 さて、後小松の父親が義満かどうかはさておいて、現代では「南朝系の皇統が続いている」また「北朝の血筋は途絶えている」という、熊沢の主張を否定できないということである。なぜなら、明治政府がこうした言い分を可能せしめたからだ。

 つまり明治政府は、南朝こそが正統であり、北朝は「偽」の天皇であったとし、南朝方に尽くした楠木正成などは、明治天皇から「正1位」の官位を贈られ、湊川神社に祭られたが、足利尊氏は、歴史上の「3大逆賊」の一人としての扱いだった。

 分かりやすく言おう。南朝4代の間、「偽」とされた北朝においても天皇は即位し続けていた。光厳→光明→崇光→後光厳→後円融→後小松である。だが明治政府によって、これら北朝天皇はいずれも偽天皇とされた。この結果、後小松も即位後9年間は偽天皇で、合一した10年目に、晴れて第100代の「正」天皇になったということになる。

 さて、ここで問題になるのは合一後、南朝系の「血筋」が一度でもいいから皇位に就いていれば、明治以後の「偽天皇問題」は起きなかったということである。つまり、南朝の正統な血筋が北朝系につながるからだ。

 しかし歴史上、後小松がその19年目(1410年=応永17年)、自分の息子である実仁親王(後の第101代・称光天皇)を皇太子としたことで、、京・大覚寺に隠遁していた後亀山は、合一が反故にされ、南朝の血筋が皇位に就く希望が無くなったことで吉野に走り去った。吉野に依然として残る南朝方勢力に迎え入れられたのだ。

 慌てた幕府によって、7年目に、後亀山は京に帰ってもらったが、この応永17年以降を「後南朝」と呼び、ここから吉野の南朝方による、今につながる「もう一つの天皇家」の歴史が始まる。

 つまり、後南朝は後亀山の死後(帰京後2年目)、その弟の小倉宮が後を継ぎ、その系統や、南朝2人目の後村上(第97代)の皇子・上野宮説成親王の子・円胤を奉じた伊勢の北畠氏が挙兵するなど、吉野を中心に、いわゆる「正天皇家」による皇統奪還の動きが始まってしまったのだ。

 そして1443年(嘉吉3年)、後南朝勢力はとうとう京に攻め入り、天皇の象徴である神璽を奪い取り「16年間も返さなかった」。この時、後村上のもう一人の孫・尊秀王は、武運つたなく清涼殿で自刃したものの、尊秀王の子・一の宮は「自天王」と称して即位し、後南朝は形式上、正天皇の形を整えた。神璽の存在する場所によって、正天皇と偽天皇を分けるのであれば、これから16年の間、第102代・後花園天皇は、神璽を持たないから一種の偽天皇となるわけである。

 しかし、こんなことは長く続かなかった。1457年(長禄元年)、先の「嘉吉の乱」(1441年=嘉吉元年)で、「あらぬ恨み」で第6代将軍・足利義教を弑逆し、故に、お家断絶した幕府「3管4職」の4職家の一つ、赤松家のお家再興のために、赤松浪人の一人が吉野に忍び込み自天王を殺害し、神璽を奪った。しかし、すぐに郷民に取り返された後、翌長禄2年、別の赤松浪人・小寺藤兵衛が郷民を騙して神璽を奪い取り、後花園に奉った。

 結果、神璽が京に帰り、この後、長く北朝の時代が続くと思われた。しかし、後南朝は決して滅びたのではなかった。神璽が京に戻ってから9年目の1467年(応仁元年)、この年に始まった「応仁の乱」では、東軍の細川勝元が、後土御門天皇を奉じたのに対し、西軍の山名宗全は、後南朝系の小倉宮を奉じて戦った。いわば、南北朝戦の延長である。

 しかししかし、これが、後南朝が吉野から出て戦った最後であった。もう、吉野には何も残っていなかった。そして、吉野には久しぶりの平和が訪れた。吉野は平穏に包まれた。

 吉野の山中には、今でも南朝皇族の系統、あるいは遺臣の子孫という、いわゆる「筋目」の家が多い。天皇家と同じ「菊の家紋」を付けているし、旧正月には山上に登って、祖先の遺品を持ち寄り、朝拝という儀式を行っている。後南朝の誇りと歴史が今でも生きている。先年、久しぶりに吉野を訪れ、そんな空気を実感してきた。

 さて、その後の熊沢天皇である。その頃の時代の雰囲気からして、彼は、戦争責任者である昭和天皇が退位し、自分が皇位に就くと疑わなかった。MP(米国憲兵)も身辺警護に就き、自称侍従も何人かいた。しかし、GHQによる昭和天皇を利用した統治政策の方針が固まるにつれて、社会も落ち着きを取り戻し、熊沢天皇は冷たい視線にさらされるようになっていった。1951年(昭和26年)、一発逆転を狙って「現天皇不的確確認」を東京地裁に提訴したが、まともに相手にされず却下され、その後、零落の内に1966年、78才で薨去した。

 戦後、自らこそが天皇だと称した人物は、熊沢以外にも何人かいた。しかし、いずれも黙殺されている。それは、多くの国民が2700年近く続く「万世一系の血脈」の中にこそ、自らのアイデンティティーを見い出そうとしている現れではないだろうか。

 最近、野党の女性代表の二重国籍が問題視されているが、多数の国民が持つ違和感は、こうしたところにあると思える。

 

「踰年」にしてはどうだろう?

 9月13日付けの朝日新聞によると、アンケートの結果、今の天皇陛下の「生前退位」に賛成する国民は「91%」、「女性天皇」に賛同する意見も「72%」に達した。

 今上天皇の「お言葉」からほぼ1カ月。生前退位がこれほどまでに高い支持を得ているのは、今上天皇のご負担を少しでも和らげたい。また女性天皇についても、単に男女平等などという薄っぺらい考えではなく、側室制度を持たない現・天皇家への(男子の誕生という)過度の期待から開放させてあげたい、という国民の皇室への敬愛の念が、こうした数字となって現れたのだろう。

 皇室のあり方を巡っては、小泉政権時「女性・女系天皇」について、野田政権の時は「女性宮家の創設」が検討されたが、いずれも結論を得ないまま立ち消えとなってしまった。

 そして、今回は生前退位について、である。安倍政権は「皇室典範」の改正は行わず、今上天皇だけに適用される特別措置法を今年中にまとめ、来年の通常国会に諮るとしており多分、今上天皇の誕生日である12月23日に合わせて原案が発表されるのであろう。

 そこで、である。今回の論点の一つとして、新しい元号の始まりを「踰年(ゆねん)」にできないか、検討してはどうだろう。踰年とは、天皇崩御された翌年の元旦から新しい元号とするもので、現在の「即日改元」より相応しいのではないだろうか。

 昭和20年8月の太平洋戦争終結によって、「今ヨリ御一代一号ニ定メラレ候」とした「一世一元ノ布告」(明治元年9月8日、行政官布告)と、「皇室典範」(同22年2月11日)、「登極令」(同42年、皇室令第1号)という、元号の法的根拠はいずれも消滅した。そして以後、長い間、元号の問題は曖昧なまま(戦後、行政官布告の効力は残存しているという説があった)触れられることもなかった。それは、天皇崩御を前提とした議論となるだけにはばかりが多い、ということだったのだろう。

 改めて元号に法的根拠が与えられたのは、昭和54年6月12日に公布施行された「元号法」においてである。といっても実に簡単なもので、次の2行でしかない。

 「一、元号は、政令で定める」
 「二、元号は、皇位の継承があった場合に限り改める」で、ある。

 「政令で定める」とは行政で処理するということだ。つまり、閣議決定で定めるということだが、例えば、どういう熟語にする(2つの漢字の繋がり)とか、誰が提案する、また使用開始時期についても触れられていない。現在の皇室典範第4条は「天皇が崩じたときは、皇嗣が直ちに即位する」と規定しており、元号法の「皇位の継承があった場合」とは、この第4条に対応しているのだが、元号がいつから効力を生じるかについての規定はないのだ。

 明治天皇崩御したのは明治45年7月30日だったが、大正天皇は大正15年(1926年)12月25日、昭和天皇は昭和64年(1989年)1月7日に崩御された。故に、昭和元年は1週間ほどしかなく、逆に、昭和64年は1週間ほどで、そのほとんどが平成元年だった。

 この年に生まれた国民は、どちらの元号を使えば良いのか?そんな単純な話ではなく今後、数100年にわたり、踰年にしなければ、西暦の歴年に対する時間的絶対根拠がなくなり、元号が自ずと消滅していくことを危惧するのだ。

 江戸時代、多くの庶民は、随分昔に源頼朝の開いた幕府があったことは知っていても、それが何年前のことであるかは分からないでいた。歴年の西暦がないから当然である。「何とか天皇の何年」といった元号年数を足していくことでしか、過去にたどり着けなかったのだから。

 そもそも元号の始まりは、天智天皇の母である第35代・皇極天皇の4年、「大化」と定められたことに始まる。「大化の改新」で有名なあの大化である。「日本書紀」には、そう記されている。

 そして以後、江戸時代最後の「慶応」に至るまで、大化も含めて226の元号があり(南北朝時代北朝は除く)、一世一元となった明治、大正、昭和、そして今上と続くのである(今上が崩御されれば、恐らく平成天皇と諡される)。

 今回の政府の議論で、今上の生前退位を「是」とした場合、それはいつからなのか?そんな不毛な議論を巻き起こしたくもなく、故に、踰年にしてはどうだろう。

「満州」は元々、日本だった

 そもそも歴史には「正史」のほかに、異聞や異説をまとめた「稗史」(はいし)と呼ばれるものがある。モンゴルの英雄、チンギス・ハーンの偉業を伝える「元朝秘史」も、その一つだろう。

 「上天より命ありて生まれたる蒼き狼ありき。その妻なる生白き牝鹿ありき」。元朝秘史の有名な書き出しである。モンゴル族の先祖は草原の覇者である狼と、美しく優しい鹿である、という意味であろうか。後世の多くのチンギス・ハーンに関する物語は、この元朝秘史に拠るところが大きい。「元」の後の「明」の時代に書かれたものだが、作者は分からない。日本には明治時代末、内藤湖南が紹介した。

 さて、ここに一つの異聞がある。

 昭和14年(1939年)、つまり太平洋戦争が始まる2年前に、モンゴル国を支えるソ連と、満州国の後ろ盾・日本の「関東軍」が戦った「ノモンハン事件」である。互いに宣戦布告をしていないので「事件」というが、関東軍は一個師団(第23師団、小松原師団長)約3万人が壊滅するほどの大惨敗を喫した(半藤一利著「ノモンハンの夏」(文藝春秋)に詳しい)。この戦いは、この年の春先から秋まで約半年間続いた。

 国境線を巡る争いだった。日本は、同地にある「ハルハ河」を、ソ連は、そこから10数㌔東の辺り(つまり満州国内)が国境線であると主張。これが争いの発端となった。ただ、その地域一帯は人家もなく、草原と岩石の山が続く荒れ地である。当時にしても、また今となっても、どうしてたかだか、その東西10㌔ほどの地域が重要だったのか、と思ってしまう。

 しかし実は、そこでチンギス・ハーンの墓が見つかっていたということになれば、話は別だ。ましてや、その墓の内部には「笹竜胆」(ささりんどう)が描かれていたという。笹竜胆は言うまでもなく「清和源氏」の家紋である。そう、源義経は奥州・平泉で自害したのではなく、陸奥の「外ヶ浜」から船で大陸に渡り、チンギス・ハーンになっていたのだ。

 関東軍ソ連がこの墓にこだわった理由は、まさに、ここにこそある。

 ソ連は当時、スターリンがモンゴルに対して圧迫を加え支配下に置いていた。モンゴル族の英雄の墓が見つかることでモンゴル人が民族意識に目覚め、ソ連に反旗を翻すことを恐れた。一方、日本は「清」最後の皇帝・溥儀を擁立し満州国を建国したが、それによって世界から孤立していた。しかし、満州の地に初めて国家を築いたのが義経であれば、世界は満州国を認めないわけにはいかなくなる。満州はそもそも「日本の国土」だったのだからだ。

 それにしてもソ連と日本は、どうして彼の地にチンギス・ハーンの墓があると知り得たのか。

 実は「清」時代の北京宮廷の書庫には、門外不出の「図書輯勘録」(としょしゅうかんろく)という代々の「清」の皇帝が編纂した国史があり、その中で第6代の乾隆帝が、序文で「朕の姓は源、義経の裔なり。その先は清和に出ず。故に国を清と号す」と書き記し、チンギス・ハーン義経)の墓についても触れている、というのだ。

 今の中国政府は、その存在を現在も明らかにしていないし、故に「清」の建国については不明な点も多く(「元」滅亡後、チンギスの子孫はモンゴルや満州に逃れ、その地で族長の娘と婚して諸公子が生まれ、その一人が「清」の祖・ヌルハチで「明」に攻め入り滅ぼした)、歴史の謎だ。

 それはさておき、この図書輯勘録の写本が日本の内閣文庫と大英図書館、さらにモスクワにもあり(リヒャルト・ゾルゲが日本から内容を盗んだ)、日本とソ連は、これを基にチンギス・ハーンの墓の所在地を知るに至った。ただ、墓はソ連によって爆破され、今に残っていない。

 この異聞、たかだか80年ほど前の話である、と胸を張って言いたいところだが、タネを明かせば「草原に咲く一輪の花」(柴田哲孝)を参考に少々、私の推理・創作を加えた。尖閣にしても竹島にしても、さらには北方4島にしても、相手国はそこに政治的あるいは経済的メリットを認めるからこそ、進出するのだ。正義や大義では通用しない。このことを言いたかった。

「EECの母」は黒い瞳の伯爵夫人

 今年のノーベル平和賞がEU(欧州連合)に授与されることが決まった。「(EUの)前身の時代も含め、60年以上にわたって欧州における平和と和解、民主主義と人権の向上に貢献した」(朝日新聞)ことが、授賞の理由という。

 振り返ると1952年、第2次世界大戦の敵国同士だったドイツとフランスを中心に6カ国が「欧州石炭鉄鋼共同体」(ECSC)を設立し以降、57年の欧州経済共同体(EEC)、67年の欧州共同体(EC)、そして93年のEU発足へとつながる。

 しかし、歴史の彼方に追いやられてしまっているが、第1次大戦が終わった5年後の1923年、すでにこうした理念を発表し、当時のヨーロッパの大政治家や実務者から大きな賞賛を浴びていた人物がいる。

 第1次大戦で敗北し滅亡したハプスブルグ帝国、つまりオーストリア・ハンガリー帝国のボヘミヤ(今のチェコ)の貴族であったリヒャルト・クーデンホーフ・カレルギー伯爵である。「パン・ヨーロッパ」(汎ヨーロッパ)思想を唱え運動し、今では、その影響で後にEECが創られたとされている。

 リヒャルトが唱えた論は、世界をイギリス、アメリカ、ソ連、アジア、ヨーロッパの5圏に分けるというもので、その基本思想は①ソ連の軍事的侵略の危険に対処する②ヨーロッパの経済的統合によって、アメリカの大規模な経済に対処する③最後はヨーロッパの平和である−−というものだ。しかしこれは、当時のアメリカ大統領・ウイルソンの考えとは正反対なものであり、このウイルソンによって、第1次大戦後のヨーロッパは小民族国家へと分裂していくことになる。

 リヒャルトの思想は、むしろ第2次大戦後に有力になった。それが、すなわちEECの設立である。ただ、それは彼の思想がなくても成立したかもしれない。EECの始まりは経済的利益からスタートしているからである。

 で、この稿で書きたかったのは、こんなことではない。

 実は、このリヒャルトの母親は日本人である、ということだ。名前をクーデンホーフ・光子という。結婚する前は青山光子といった。1874年(明治7年)、平民の子として東京牛込区の生まれ。そして92年(明治25年)、オーストリア・ハンガリー帝国の駐日代理公使として来日したリヒャルトの父・ハインリヒに見初められ結婚し、96年(明治29年)にボヘミアに渡っている。

 結婚に至るまでの逸話は様々残されている。外国人に娘をやるわけにはいかないと、光子は親から勘当された。また、あまりの身分違いにハインリヒの父親もこの結婚を認めなかった。光子はほとんど無学でもあった。それ以外にも、そもそも外交官が赴任地の女性と結婚することは禁止されていた。

 しかし、最も大きな不幸は、ボヘミアに渡った10年後の1906年、夫のハインリヒが46才の若さで亡くなった(心臓発作で)ことである。伯爵家ということで使用人は40〜50人いた。これを、残された光子が一人で差配し、伯爵家の領地や財産を守り、さらに第1次大戦下では、敵国となった日本人であるということで迫害も受けた。こんな状況で7人の子供を育てた。その次男がリヒャルトである。後にリヒャルトは、ヒトラーが政権をとった後、妻と共にスイスからフランスへ、最終的にはアメリカに亡命し、その地で大学教授になっている。

 光子が、今ではヨーロッパで「EECの母」と呼ばれるのは、こうした経緯があるからである(当時は「汎ヨーロッパの母」と呼ばれていたようだ)。

 それにしても、光子は美貌の人である。今、当時の写真を見ると日傘を差し、(鳥の羽の付いた)ツバの広い帽子をかぶり、極端にウエストを絞り込んだスーツを着こなした姿は現在でも十分、男性の目を引く。個人的には(ちょっと古いかもしれないが)早見優南野陽子とソックリだと思う。

 ちなみに光子は、太平洋戦争が始まる直前の1941年(昭和16年)8月27日に亡くなった。7人の子供達は、光子の老後を看取った次女・オルガを除けば皆、すでに光子の元から去っていた。遺言は「日の丸の旗に身体を包み、ハインリヒの傍らに葬って」。しかし、ハインリヒの墓はボヘミアにあるにも関わらず、彼女はウイーンに葬られている。

 日本を離れるとき、明治天皇の皇后・美子后に「ヨーロッパへ行ったらクーデンホーフ伯爵夫人として、日本帝国の名誉を十分に守るように」と言われたことを片時も忘れず、「日本の皇室を神と思って生きてきた」。最も早い国際結婚の一つの形である。