吉野に続くもう一つの天皇家

 「今の(昭和)天皇は偽天皇であり、自分こそ正真正銘の天皇だ。現天皇を追放し、自分を即位させてほしい」。終戦直後の1945年(昭和20年)末、GHQ(連合国軍総司令部)に、こんなことを訴え出た人物がいた。

 そして、GHQが翌年1月、この訴えを公表したことで、内外に一大センセーショナルを巻き起こした。訴え出たのは、名古屋市千種区洋品雑貨商を営んでいた「熊沢寛道」なる人物。彼が自らを天皇と主張する根拠は、「天皇家の正系である後亀山天皇より19代目の子孫で、証拠の系図などもある」というものだった。

 後亀山天皇は「建武の新政」で知られる後醍醐天皇が、足利尊氏に京都を追われ、奈良・吉野の地に開いた「南朝」の後醍醐→後村上→長慶に続く4代目の天皇で、「皇統譜」では神武天皇以来、第99代目となる。

 歴史的には、後亀山は1392年、対立していた「北朝」と和議を結び、神璽を譲って合一(相互に皇統に就く約束)し、北朝後小松天皇に譲位した。そしてこれ以後、約60年続いた南朝系の皇胤は断絶した(南北朝時代の終焉)というのが、歴史の教科書では定説となっている。

 しかし、熊沢の主張はこう続く。「後小松天皇の父親は足利義満室町幕府第3代将軍)で、それ故、天皇家の皇統はそこで断絶している。従って、北朝系の血筋の昭和天皇は偽天皇にほかならず、また南朝系の皇統は水面下で連綿と継承されており、南朝系こそ正統の天皇家だ」。

 さて、後小松の父親が義満かどうかはさておいて、現代では「南朝系の皇統が続いている」また「北朝の血筋は途絶えている」という、熊沢の主張を否定できないということである。なぜなら、明治政府がこうした言い分を可能せしめたからだ。

 つまり明治政府は、南朝こそが正統であり、北朝は「偽」の天皇であったとし、南朝方に尽くした楠木正成などは、明治天皇から「正1位」の官位を贈られ、湊川神社に祭られたが、足利尊氏は、歴史上の「3大逆賊」の一人としての扱いだった。

 分かりやすく言おう。南朝4代の間、「偽」とされた北朝においても天皇は即位し続けていた。光厳→光明→崇光→後光厳→後円融→後小松である。だが明治政府によって、これら北朝天皇はいずれも偽天皇とされた。この結果、後小松も即位後9年間は偽天皇で、合一した10年目に、晴れて第100代の「正」天皇になったということになる。

 さて、ここで問題になるのは合一後、南朝系の「血筋」が一度でもいいから皇位に就いていれば、明治以後の「偽天皇問題」は起きなかったということである。つまり、南朝の正統な血筋が北朝系につながるからだ。

 しかし歴史上、後小松がその19年目(1410年=応永17年)、自分の息子である実仁親王(後の第101代・称光天皇)を皇太子としたことで、、京・大覚寺に隠遁していた後亀山は、合一が反故にされ、南朝の血筋が皇位に就く希望が無くなったことで吉野に走り去った。吉野に依然として残る南朝方勢力に迎え入れられたのだ。

 慌てた幕府によって、7年目に、後亀山は京に帰ってもらったが、この応永17年以降を「後南朝」と呼び、ここから吉野の南朝方による、今につながる「もう一つの天皇家」の歴史が始まる。

 つまり、後南朝は後亀山の死後(帰京後2年目)、その弟の小倉宮が後を継ぎ、その系統や、南朝2人目の後村上(第97代)の皇子・上野宮説成親王の子・円胤を奉じた伊勢の北畠氏が挙兵するなど、吉野を中心に、いわゆる「正天皇家」による皇統奪還の動きが始まってしまったのだ。

 そして1443年(嘉吉3年)、後南朝勢力はとうとう京に攻め入り、天皇の象徴である神璽を奪い取り「16年間も返さなかった」。この時、後村上のもう一人の孫・尊秀王は、武運つたなく清涼殿で自刃したものの、尊秀王の子・一の宮は「自天王」と称して即位し、後南朝は形式上、正天皇の形を整えた。神璽の存在する場所によって、正天皇と偽天皇を分けるのであれば、これから16年の間、第102代・後花園天皇は、神璽を持たないから一種の偽天皇となるわけである。

 しかし、こんなことは長く続かなかった。1457年(長禄元年)、先の「嘉吉の乱」(1441年=嘉吉元年)で、「あらぬ恨み」で第6代将軍・足利義教を弑逆し、故に、お家断絶した幕府「3管4職」の4職家の一つ、赤松家のお家再興のために、赤松浪人の一人が吉野に忍び込み自天王を殺害し、神璽を奪った。しかし、すぐに郷民に取り返された後、翌長禄2年、別の赤松浪人・小寺藤兵衛が郷民を騙して神璽を奪い取り、後花園に奉った。

 結果、神璽が京に帰り、この後、長く北朝の時代が続くと思われた。しかし、後南朝は決して滅びたのではなかった。神璽が京に戻ってから9年目の1467年(応仁元年)、この年に始まった「応仁の乱」では、東軍の細川勝元が、後土御門天皇を奉じたのに対し、西軍の山名宗全は、後南朝系の小倉宮を奉じて戦った。いわば、南北朝戦の延長である。

 しかししかし、これが、後南朝が吉野から出て戦った最後であった。もう、吉野には何も残っていなかった。そして、吉野には久しぶりの平和が訪れた。吉野は平穏に包まれた。

 吉野の山中には、今でも南朝皇族の系統、あるいは遺臣の子孫という、いわゆる「筋目」の家が多い。天皇家と同じ「菊の家紋」を付けているし、旧正月には山上に登って、祖先の遺品を持ち寄り、朝拝という儀式を行っている。後南朝の誇りと歴史が今でも生きている。先年、久しぶりに吉野を訪れ、そんな空気を実感してきた。

 さて、その後の熊沢天皇である。その頃の時代の雰囲気からして、彼は、戦争責任者である昭和天皇が退位し、自分が皇位に就くと疑わなかった。MP(米国憲兵)も身辺警護に就き、自称侍従も何人かいた。しかし、GHQによる昭和天皇を利用した統治政策の方針が固まるにつれて、社会も落ち着きを取り戻し、熊沢天皇は冷たい視線にさらされるようになっていった。1951年(昭和26年)、一発逆転を狙って「現天皇不的確確認」を東京地裁に提訴したが、まともに相手にされず却下され、その後、零落の内に1966年、78才で薨去した。

 戦後、自らこそが天皇だと称した人物は、熊沢以外にも何人かいた。しかし、いずれも黙殺されている。それは、多くの国民が2700年近く続く「万世一系の血脈」の中にこそ、自らのアイデンティティーを見い出そうとしている現れではないだろうか。

 最近、野党の女性代表の二重国籍が問題視されているが、多数の国民が持つ違和感は、こうしたところにあると思える。