「踰年」にしてはどうだろう?

 9月13日付けの朝日新聞によると、アンケートの結果、今の天皇陛下の「生前退位」に賛成する国民は「91%」、「女性天皇」に賛同する意見も「72%」に達した。

 今上天皇の「お言葉」からほぼ1カ月。生前退位がこれほどまでに高い支持を得ているのは、今上天皇のご負担を少しでも和らげたい。また女性天皇についても、単に男女平等などという薄っぺらい考えではなく、側室制度を持たない現・天皇家への(男子の誕生という)過度の期待から開放させてあげたい、という国民の皇室への敬愛の念が、こうした数字となって現れたのだろう。

 皇室のあり方を巡っては、小泉政権時「女性・女系天皇」について、野田政権の時は「女性宮家の創設」が検討されたが、いずれも結論を得ないまま立ち消えとなってしまった。

 そして、今回は生前退位について、である。安倍政権は「皇室典範」の改正は行わず、今上天皇だけに適用される特別措置法を今年中にまとめ、来年の通常国会に諮るとしており多分、今上天皇の誕生日である12月23日に合わせて原案が発表されるのであろう。

 そこで、である。今回の論点の一つとして、新しい元号の始まりを「踰年(ゆねん)」にできないか、検討してはどうだろう。踰年とは、天皇崩御された翌年の元旦から新しい元号とするもので、現在の「即日改元」より相応しいのではないだろうか。

 昭和20年8月の太平洋戦争終結によって、「今ヨリ御一代一号ニ定メラレ候」とした「一世一元ノ布告」(明治元年9月8日、行政官布告)と、「皇室典範」(同22年2月11日)、「登極令」(同42年、皇室令第1号)という、元号の法的根拠はいずれも消滅した。そして以後、長い間、元号の問題は曖昧なまま(戦後、行政官布告の効力は残存しているという説があった)触れられることもなかった。それは、天皇崩御を前提とした議論となるだけにはばかりが多い、ということだったのだろう。

 改めて元号に法的根拠が与えられたのは、昭和54年6月12日に公布施行された「元号法」においてである。といっても実に簡単なもので、次の2行でしかない。

 「一、元号は、政令で定める」
 「二、元号は、皇位の継承があった場合に限り改める」で、ある。

 「政令で定める」とは行政で処理するということだ。つまり、閣議決定で定めるということだが、例えば、どういう熟語にする(2つの漢字の繋がり)とか、誰が提案する、また使用開始時期についても触れられていない。現在の皇室典範第4条は「天皇が崩じたときは、皇嗣が直ちに即位する」と規定しており、元号法の「皇位の継承があった場合」とは、この第4条に対応しているのだが、元号がいつから効力を生じるかについての規定はないのだ。

 明治天皇崩御したのは明治45年7月30日だったが、大正天皇は大正15年(1926年)12月25日、昭和天皇は昭和64年(1989年)1月7日に崩御された。故に、昭和元年は1週間ほどしかなく、逆に、昭和64年は1週間ほどで、そのほとんどが平成元年だった。

 この年に生まれた国民は、どちらの元号を使えば良いのか?そんな単純な話ではなく今後、数100年にわたり、踰年にしなければ、西暦の歴年に対する時間的絶対根拠がなくなり、元号が自ずと消滅していくことを危惧するのだ。

 江戸時代、多くの庶民は、随分昔に源頼朝の開いた幕府があったことは知っていても、それが何年前のことであるかは分からないでいた。歴年の西暦がないから当然である。「何とか天皇の何年」といった元号年数を足していくことでしか、過去にたどり着けなかったのだから。

 そもそも元号の始まりは、天智天皇の母である第35代・皇極天皇の4年、「大化」と定められたことに始まる。「大化の改新」で有名なあの大化である。「日本書紀」には、そう記されている。

 そして以後、江戸時代最後の「慶応」に至るまで、大化も含めて226の元号があり(南北朝時代北朝は除く)、一世一元となった明治、大正、昭和、そして今上と続くのである(今上が崩御されれば、恐らく平成天皇と諡される)。

 今回の政府の議論で、今上の生前退位を「是」とした場合、それはいつからなのか?そんな不毛な議論を巻き起こしたくもなく、故に、踰年にしてはどうだろう。