「満州」は元々、日本だった

 そもそも歴史には「正史」のほかに、異聞や異説をまとめた「稗史」(はいし)と呼ばれるものがある。モンゴルの英雄、チンギス・ハーンの偉業を伝える「元朝秘史」も、その一つだろう。

 「上天より命ありて生まれたる蒼き狼ありき。その妻なる生白き牝鹿ありき」。元朝秘史の有名な書き出しである。モンゴル族の先祖は草原の覇者である狼と、美しく優しい鹿である、という意味であろうか。後世の多くのチンギス・ハーンに関する物語は、この元朝秘史に拠るところが大きい。「元」の後の「明」の時代に書かれたものだが、作者は分からない。日本には明治時代末、内藤湖南が紹介した。

 さて、ここに一つの異聞がある。

 昭和14年(1939年)、つまり太平洋戦争が始まる2年前に、モンゴル国を支えるソ連と、満州国の後ろ盾・日本の「関東軍」が戦った「ノモンハン事件」である。互いに宣戦布告をしていないので「事件」というが、関東軍は一個師団(第23師団、小松原師団長)約3万人が壊滅するほどの大惨敗を喫した(半藤一利著「ノモンハンの夏」(文藝春秋)に詳しい)。この戦いは、この年の春先から秋まで約半年間続いた。

 国境線を巡る争いだった。日本は、同地にある「ハルハ河」を、ソ連は、そこから10数㌔東の辺り(つまり満州国内)が国境線であると主張。これが争いの発端となった。ただ、その地域一帯は人家もなく、草原と岩石の山が続く荒れ地である。当時にしても、また今となっても、どうしてたかだか、その東西10㌔ほどの地域が重要だったのか、と思ってしまう。

 しかし実は、そこでチンギス・ハーンの墓が見つかっていたということになれば、話は別だ。ましてや、その墓の内部には「笹竜胆」(ささりんどう)が描かれていたという。笹竜胆は言うまでもなく「清和源氏」の家紋である。そう、源義経は奥州・平泉で自害したのではなく、陸奥の「外ヶ浜」から船で大陸に渡り、チンギス・ハーンになっていたのだ。

 関東軍ソ連がこの墓にこだわった理由は、まさに、ここにこそある。

 ソ連は当時、スターリンがモンゴルに対して圧迫を加え支配下に置いていた。モンゴル族の英雄の墓が見つかることでモンゴル人が民族意識に目覚め、ソ連に反旗を翻すことを恐れた。一方、日本は「清」最後の皇帝・溥儀を擁立し満州国を建国したが、それによって世界から孤立していた。しかし、満州の地に初めて国家を築いたのが義経であれば、世界は満州国を認めないわけにはいかなくなる。満州はそもそも「日本の国土」だったのだからだ。

 それにしてもソ連と日本は、どうして彼の地にチンギス・ハーンの墓があると知り得たのか。

 実は「清」時代の北京宮廷の書庫には、門外不出の「図書輯勘録」(としょしゅうかんろく)という代々の「清」の皇帝が編纂した国史があり、その中で第6代の乾隆帝が、序文で「朕の姓は源、義経の裔なり。その先は清和に出ず。故に国を清と号す」と書き記し、チンギス・ハーン義経)の墓についても触れている、というのだ。

 今の中国政府は、その存在を現在も明らかにしていないし、故に「清」の建国については不明な点も多く(「元」滅亡後、チンギスの子孫はモンゴルや満州に逃れ、その地で族長の娘と婚して諸公子が生まれ、その一人が「清」の祖・ヌルハチで「明」に攻め入り滅ぼした)、歴史の謎だ。

 それはさておき、この図書輯勘録の写本が日本の内閣文庫と大英図書館、さらにモスクワにもあり(リヒャルト・ゾルゲが日本から内容を盗んだ)、日本とソ連は、これを基にチンギス・ハーンの墓の所在地を知るに至った。ただ、墓はソ連によって爆破され、今に残っていない。

 この異聞、たかだか80年ほど前の話である、と胸を張って言いたいところだが、タネを明かせば「草原に咲く一輪の花」(柴田哲孝)を参考に少々、私の推理・創作を加えた。尖閣にしても竹島にしても、さらには北方4島にしても、相手国はそこに政治的あるいは経済的メリットを認めるからこそ、進出するのだ。正義や大義では通用しない。このことを言いたかった。