「EECの母」は黒い瞳の伯爵夫人

 今年のノーベル平和賞がEU(欧州連合)に授与されることが決まった。「(EUの)前身の時代も含め、60年以上にわたって欧州における平和と和解、民主主義と人権の向上に貢献した」(朝日新聞)ことが、授賞の理由という。

 振り返ると1952年、第2次世界大戦の敵国同士だったドイツとフランスを中心に6カ国が「欧州石炭鉄鋼共同体」(ECSC)を設立し以降、57年の欧州経済共同体(EEC)、67年の欧州共同体(EC)、そして93年のEU発足へとつながる。

 しかし、歴史の彼方に追いやられてしまっているが、第1次大戦が終わった5年後の1923年、すでにこうした理念を発表し、当時のヨーロッパの大政治家や実務者から大きな賞賛を浴びていた人物がいる。

 第1次大戦で敗北し滅亡したハプスブルグ帝国、つまりオーストリア・ハンガリー帝国のボヘミヤ(今のチェコ)の貴族であったリヒャルト・クーデンホーフ・カレルギー伯爵である。「パン・ヨーロッパ」(汎ヨーロッパ)思想を唱え運動し、今では、その影響で後にEECが創られたとされている。

 リヒャルトが唱えた論は、世界をイギリス、アメリカ、ソ連、アジア、ヨーロッパの5圏に分けるというもので、その基本思想は①ソ連の軍事的侵略の危険に対処する②ヨーロッパの経済的統合によって、アメリカの大規模な経済に対処する③最後はヨーロッパの平和である−−というものだ。しかしこれは、当時のアメリカ大統領・ウイルソンの考えとは正反対なものであり、このウイルソンによって、第1次大戦後のヨーロッパは小民族国家へと分裂していくことになる。

 リヒャルトの思想は、むしろ第2次大戦後に有力になった。それが、すなわちEECの設立である。ただ、それは彼の思想がなくても成立したかもしれない。EECの始まりは経済的利益からスタートしているからである。

 で、この稿で書きたかったのは、こんなことではない。

 実は、このリヒャルトの母親は日本人である、ということだ。名前をクーデンホーフ・光子という。結婚する前は青山光子といった。1874年(明治7年)、平民の子として東京牛込区の生まれ。そして92年(明治25年)、オーストリア・ハンガリー帝国の駐日代理公使として来日したリヒャルトの父・ハインリヒに見初められ結婚し、96年(明治29年)にボヘミアに渡っている。

 結婚に至るまでの逸話は様々残されている。外国人に娘をやるわけにはいかないと、光子は親から勘当された。また、あまりの身分違いにハインリヒの父親もこの結婚を認めなかった。光子はほとんど無学でもあった。それ以外にも、そもそも外交官が赴任地の女性と結婚することは禁止されていた。

 しかし、最も大きな不幸は、ボヘミアに渡った10年後の1906年、夫のハインリヒが46才の若さで亡くなった(心臓発作で)ことである。伯爵家ということで使用人は40〜50人いた。これを、残された光子が一人で差配し、伯爵家の領地や財産を守り、さらに第1次大戦下では、敵国となった日本人であるということで迫害も受けた。こんな状況で7人の子供を育てた。その次男がリヒャルトである。後にリヒャルトは、ヒトラーが政権をとった後、妻と共にスイスからフランスへ、最終的にはアメリカに亡命し、その地で大学教授になっている。

 光子が、今ではヨーロッパで「EECの母」と呼ばれるのは、こうした経緯があるからである(当時は「汎ヨーロッパの母」と呼ばれていたようだ)。

 それにしても、光子は美貌の人である。今、当時の写真を見ると日傘を差し、(鳥の羽の付いた)ツバの広い帽子をかぶり、極端にウエストを絞り込んだスーツを着こなした姿は現在でも十分、男性の目を引く。個人的には(ちょっと古いかもしれないが)早見優南野陽子とソックリだと思う。

 ちなみに光子は、太平洋戦争が始まる直前の1941年(昭和16年)8月27日に亡くなった。7人の子供達は、光子の老後を看取った次女・オルガを除けば皆、すでに光子の元から去っていた。遺言は「日の丸の旗に身体を包み、ハインリヒの傍らに葬って」。しかし、ハインリヒの墓はボヘミアにあるにも関わらず、彼女はウイーンに葬られている。

 日本を離れるとき、明治天皇の皇后・美子后に「ヨーロッパへ行ったらクーデンホーフ伯爵夫人として、日本帝国の名誉を十分に守るように」と言われたことを片時も忘れず、「日本の皇室を神と思って生きてきた」。最も早い国際結婚の一つの形である。