蘇る藤原不比等の亡霊

 10月5日、政府が「女性宮家」を創設することの是非や、そのあり方を巡って「皇室典範」の見直しに向けた「論点整理」を公表した。

 どうして今、女性宮家の創設なのか。

 それはつまり、現在の皇室典範にキチンとした規定があるわけではないのだが、このままだと、後20年もしない内に(失礼を承知で申し上げると)現在の4宮家の内、皇太子さまの弟である「秋篠宮さま」(46才)を除く「三笠宮さま」(96才)「常陸宮さま」(76才)「桂宮さま」(64才)の3宮家は、いずれも直系男子がいない、ということで廃絶されることになる。

 では、この後、新たな宮家はというと、秋篠宮家の現在6才になる「悠仁さま」が、皇太子あるいは天皇に就かれた後(現在、女帝は認められていないので「愛子さま」は天皇になり得ないだろう)、妃との間にお生まれになった男子の第2子以降しか宮家を創設することができない。これはつまり今後、20年ほどの後には、宮家が一つも存在しないことになるかもしれない、ということだ。

 で、宮家とは一体、どういった存在なのか。簡単に言うなら代々、親王身分の保持を許された「世襲親王家」で、皇統断絶の際には天皇となる家柄だ。これまでにも多くの宮家の創設、断絶があったが、天皇を3人も輩出するなど貴重な役割を果たしてきている。

 ちなみに現天皇家は、江戸時代中期に創設された「閑院宮家」の系統である。114代・中御門天皇は、弟の秀宮に閑院宮の称号を与え宮家を創設させ、その閑院宮直仁親王(秀宮)の孫・美仁親王の弟が119代・光格天皇として即位。そして121代・孝明、122代・明治、123代・大正、124代・昭和、125代・今上天皇へと続いている。

 そもそも宮家は、太平洋戦争終了時の昭和20年には14家あった。しかし昭和22年10月、GHQ(連合国総司令部)は、昭和天皇の弟である「秩父宮」「高松宮」「三笠宮」の3家のみしか存続を許さず「伏見、久邇、山階、北白川、梨本、賀陽、東伏見、竹田、朝香、閑院、東久邇」の11宮家を臣籍降下させた。伏見宮家などは、その初代・栄仁親王室町時代北朝・第3代・崇光天皇の第1皇子であり、実に550年も続いていたにも関わらずである。であるならば、そもそも今の皇統の危機はGHQが作ったことになる。まさか、昭和天皇の弟宮3家が、いずれも直系男子に恵まれない、ということは想定していなかったのだろう。

 しかし、それにしてもだ。現在の皇統の危機、いわゆる天皇制の維持に関わる諸問題は、唐突ながら1300年前の藤原不比等にまで遡る。

 古代、女帝は推古天皇を始め数多く存在した(歴史上10代8人)。そして古代にあってはいずれの女帝も皇族と結婚し、故に生まれてくる子は天皇となる資格を有していた。しかし、中大兄皇子と共に乙巳の変(西暦645年)を経て、大化の改新を導いた中臣鎌足の次男「藤原不比等」は奈良時代に入り、聖武天皇に、臣下であるにも関わらず自分の娘を后として送り込む(後の光明皇后)ことで「外戚」となり、権力を掌握することを狙った。そして、この天皇の叔父となり権力を維持する藤原氏(北家)の摂関体制は、平安時代約400年を通じて続くのだが、皇室としては「男系」を守ることで「万世一系」の皇統を維持することに努めたのである。

 そして平安時代末期になって、白河天皇上皇となり「院政」という統治スタイル確立することで、藤原氏から権力を取り返した。その後は鎌倉時代になり、男子による万世一系の血をさらに強固にするため、いざという時、天皇に就くことができる男性宮家の創設が始まったのだ。

 と、見てみると、女帝を認めないことも、また宮家の創設も、まさに藤原不比等の権勢欲に対抗したものであった、と言うしかない。そして、それが1300年後の今の皇室を苦しめている。不比等の亡霊はまだまだ生きているのだ。

 で、この皇室を壟断し続けた藤原氏(北家)だが、鎌倉時代に近衛、鷹司、一条、二条、九条の5家に分かれ、今に続いている。各家の現当主は、こんな天皇家の負の歴史を認識しているのだろうか。今でこそ天皇の存在感は気迫になったとはいえ、先の東日本大震災以降、今上天皇が示された「行為」に、私は全幅の信頼を寄せている。

異民族が標榜する中華帝国

 中国って国(正確には中国大陸の統一政権)は歴史上、国力が充実してくると必ず、今で言うところの「覇権主義」で領土拡大に走る。

 古くは「隋」の煬帝による高句麗への3度の侵攻(この無理な負担により隋は滅んだ)。そして、その後を継いだ「唐」の太宗(李世民)はとうとう高句麗を滅ぼした(実際は太宗の死後、その前には百済も滅ぼしている)。

 以後も大陸の王朝を見ると、「元」は中央アジアからヨーロッパへと侵攻し、ユーラシア大陸に空前の大帝国を築く一方、東に向かっては、高麗侵攻と日本へも2度襲来(元寇)した。また「清」の第6代・乾隆帝による「十全武功」と呼ばれる、都合10回にわたる東南アジアやネパール方面への外征は有名である。ちなみに現在の中国の領土というのは、この乾隆帝時代に確立された国境線がほぼ踏襲されている。西暦1700年代の前半、日本では徳川第8代将軍・吉宗の時代のことだ。

 これまで、こうした各王朝の対外政策は、世界の中心は我々だという「中華思想」に基づくものと理解されてきた。しかし、覇権に走るこれら各王朝の出自をたどると、いずれも漢民族ではなく、異民族であるという事実に突き当たる。隋と唐は厳密に言えば北方民族の「鮮卑拓跋(せんぴたくばつ)系」であるし、元はご存じのようにモンゴル族、清は女真族である。

 では、漢民族による王朝はどうだったのだろうか。

 その前に「秦」以降の大陸の主な統一王朝を振り返ると、秦→漢→(新)→後漢→(魏・晋)→隋→唐→宋→元→明→清→(中華民国)→そして今の中華人民共和国となる。

 始皇帝の「秦」滅亡後、紀元前202年に成立した「漢」王朝は、朝鮮半島楽浪郡などの出先機関を置きはしたものの、基本的には第7代・武帝時代に見られるように、北方の強大な「匈奴」による侵攻との戦いに明け暮れ、翻弄され続けた。

 そして、907年に唐が滅びた後、さまざまな小王朝が興亡を繰り返す「五代十国」時代の約70年を経て成立した「宋」は、五代十国時代武断政治だった反省に立ち、「文治主義」を基本にした。故に、晩年は北方に興隆した契丹族の「遼」に、続いて女真族の「金」に、今の北京を中心とする北部地域を奪い取られ、「南宋」として揚子江あたりで命脈を保ったものの、最後はモンゴル族の元に滅ぼされた。

 また、元の後に成立した「明」は争いを求めず、各国とは「朝貢貿易」を求め、積極的に外交を行った。その最たるものは、3代・永楽帝時代に行われた「鄭和の西洋下り」と呼ばれる、インドやアラビア半島に向けた大船団による大航海である。1405年から始まり、最後となる7回目(1431年)は第5代・宣徳帝の時だった。第5回以降はアフリカ大陸にまで足を延ばしている。日本では室町幕府の全盛期の頃のことだ。1492年のコロンブスより、先にアメリカ大陸を発見したという異説すらある。

 単眼的ではあるが、このように見ると、漢民族って本当は友好と通商を重んじる(良い意味での中華思想)民族なのだ。であれば、今の中国はこのDNAが、共産主義という魔物によって変質してしまっているということなのだろうか。日中関係が険悪になる中で最近、こんなことを思っている。

シーボルトとバクーニンの邂逅

 以前、直木賞作家・葉室麟の「星火瞬く」(講談社)を読み、この小説のストーリーは本当に歴史的事実に基づいているのか、ズッと気になっていた。

 小説では、江戸時代後期に、幕府禁制の日本地図を持ち出そうとして国外追放処分になったドイツ人医師・シーボルトが、幕末になって再び日本を訪れ、また同時期に、ロシアの無政府主義者であり革命家でもあるバクーニンも日本の地を踏み、両者の関わり(小説の中ではシーボルトの子息であるアレクサンダーとバクーニン)を中心にストーリーが展開されている。

 幕末にシーボルトが再び日本を訪れたこと、ましてや、世界的に有名なバクーニンが日本の地を踏んだことなどをまったく知らなかったため、小説を読んだ時、著者の、この空想的な着眼に驚いてしまった。

 でも以来、ひょっとしたら、これは、少しばかり歴史的事実を踏まえているのではないかと思い調べてみたら、なんと、いわゆる明治元年から遡ること7年前の1861年(万延2年、2月に文久改元)当時、2人はこの日本にあり、さらには偶然かどうか、会った可能性があるという。

 シーボルトは日本の開国とともに追放処分が解けたため1859年、オランダ貿易会社の顧問として約30年ぶりに再来日し、61年には対露、対蘭といった対外交渉を務めるため幕府顧問に採用され、江戸にいた。ちなみにシーボルトは翌年、この職を辞して帰国し、66年にミュンヘンで亡くなっている。

 一方、バクーニンはロシア本国での投獄後、半ば監禁状態に置かれていたシベリアを抜け出し、1961年8月に船で函館に上陸、その後、横浜に行き、そしてこの横浜からアメリカに向けて出港し、10月にはサンフランシスコに到着している。

 つまり、バクーニンがほんの1カ月ほど滞在したこの横浜で2人は会ったのだろう。後に明治政府に顧問などとして仕えたアレクサンダーが、この当時のことを振り返り、書き残しているという。

 いやはや、この小説は決して著者の空想的な着眼ではなく、キチンとした歴史的事実を踏まえて執筆されていたのだ。また、改めて歴史の奥深さを教えられた。

 小説ではバクーニンが、後の新撰組がまだ浪士隊だった頃のリーダーである元・庄内藩士の清河八郎を日本の革命家に育て上げようとし、そうした動向を探るため、シーボルトの子息のアレクサンダーがバクーニンの宿泊している横浜のホテルに出向き、そこで、両者がさまざまな人物(勝海舟高杉晋作など)と絡み合いながら話が展開されている。あまり詳しく触れると、小説を読む楽しみを奪ってしまうので、とにかく、マッ、ここら辺で、ということで。

雪の降る日に歴史は変わる

 江戸・東京に権力が座を占めて約400年。その間に、劇的な政治的事件はいくつも起こったが、その中で、日本史上でも決定的な役割を果たした「事件」が、3つある。筆者の独断を許してもらえるならば、時代順に挙げて、1702年の赤穂浪士吉良邸討ち入り、1860年の桜田門外の変、1936年の「2・26事件」である。

 赤穂浪士討ち入りは、それ自体、徳川幕府の政治体制を左右したわけではないが、極めて平和な時代であった元禄社会に与えた影響は大きく、処分を巡って幕閣は論争し「仇討ち」が政治的意味を持つに至った。

 桜田門外の変は、時の総理である大老井伊直弼の命を奪っただけでなく、幕府主導の開国政策にトドメを刺し、その後の倒幕に向けた第一歩が記された。2・26事件は、わずか3日間で収束したものの、軍部によるファシズムへの道はこれを機に一気に加速された。

 3つとも、波及効果の大きさということでは、江戸・東京を舞台とする「政治劇」としては第一級である。

 しかし、この3つの事件では、もう一つの共通点がある。それは、いずれもその日、江戸・東京には雪が降っていた、という点である。3つの事件は、あらかじめ綿密に計画されたものだが、雪までを計算に入れていたとは思えない。たまたま、決行の日に雪が降っただけのことだろう。よもや、雪に誘われて暴発した、というわけではあるまい。

 そもそも江戸・東京では降雪は珍しい自然現象である。一度も降雪を見ない冬もある。今でも雪が降ると、それはテレビニュースのトップ扱いになり、大騒ぎする。それぞれ3つの事件があった日、江戸・東京市民は、降雪と、入ってきた事件勃発のニュースに驚天動地の思いだったろう。

 それにしても、今年の冬は寒かった。もう桜の季節だというのに、まだ足下にはストーブを欠かせない。東京では、3月に入ってからも降雪を見る日があった。しかし、歴史を塗り替えるような事件は、何も起こらなかった。「決断できない」と言われる昨今の政治状況を見れば、さもありなん。

 でも、しかし、そんな中、プライベートな話で申し訳ないが、一つの事件があった。1月の降雪時に、コートの両ポケットに手を突っ込んで歩いていたばかりに、雪で滑って、前のめりに激しく転倒してしまい、歩道に強烈なキッスをしてしまった。3つの事件じゃないが、一帯の白雪を真っ赤な血で染めてしまった。

 まだ顔面の傷は癒えていないが、これによって、自分的には生き様が変わった。「より一層謙虚に」って、ことだ。目立っちゃいけない、目立って良いことなどは一つもない、なんて思っている。

 ウ〜ン、たかだか転倒しただけで、これは少し大げさだね。

「虞美人」と丸ちゃん

 「立てばシャクヤク 座ればボタン 歩く姿はユリの花」。今となってはもう誰も口にしないが、昔は美人を例える際によく使われた。私自身、ボタンとユリの花は知っているが、シャクヤクは知らない。見たことはあるかもしれないが、これがシャクヤクだ、と意識して見たことはない。

 しかし洋の東西を問わず古今、やはり、美人は花に例えるのがいいのだろう。そういう意味では「虞美人草(ぐびじんそう)」という花がある。ただ、この虞美人草なる花は謎だらけで一応、ヒナゲシが充てられているが、本当にそうなのかよく分からない。「伝説の花」なのである。

 昔、中国に「虞美人」という有名な美女が存在した、という。時は始皇帝の死後、秦王朝が崩壊し、項羽と、後に「漢王朝」を築いた劉邦が覇権を争っていた紀元前の中国においてである。

 さすがに、長きにわたる両者の戦いにも終止符を打つ時が来、劉邦の軍に囲まれた項羽が、周りから聞こえてくる楚兵の歌に、「ああ〜、自分の出身地である楚の人々も我を囲んでいるのか」と嘆き、敗北を悟ったのは有名な話である。つまり、これが「四面楚歌」のいわれだ。

 で、この時、人生の最後を迎えた項羽が「力は山を抜き 気は世を覆う〜(中略)〜虞や 虞や 汝を如何せん」と歌ったことで、この「虞」なる人物は女性で、項羽の愛妾であったのだろうと、これまで歴史的には思われてきた。

 こういうことだ。

 漢の時代になって、司馬遷によって書かれた「史記項羽本紀には「美人あり 名は虞 常に幸せられて従う」とある。つまり、この女性は「姓は分からないが、名は虞という美しい女性」ということになる。ただし、これが後漢の時代、班固によって書かれた「漢書」項籍伝では「美人あり 姓は虞 常に幸せられて従う」と書かれている。こちらに従えば「名は分からないが、姓は虞という美しい女性」となる。

 名が虞なのか、姓が虞なのか、どちらが正しいのであろう。史記にも漢書にも、虞美人なる女性の記述は、この「垓下(がいか)の戦い」の1カ所にしか登場しないので分からない。

 しかし、それ以上に気になるのは、果たして虞と呼ばれた人物が、本当に項羽の愛妾とも思われる女性だったのか、ということだ。

 司馬遷史記を著した際「虞や 虞や」の歌だけが資料として存在した。そこで、さて、この虞とは誰なのか。男か女か、幼児か美女か、と考えた司馬遷が「美女が似つかわしい」と判断し「虞という名の美女」として、項羽本紀に記したのかもしれない。

 だから、虞美人とはあくまでも司馬遷の解釈であり、本当は虞とは、項羽のまだ幼かった息子であった可能性もある。劉邦軍に包囲され、逃げ道がなくなった項羽が「幼子よ、お前もここで死ななければならないのか」と歌った、嘆きの歌であったかもしれないのだ。

 だからこそ、班固は司馬遷の解釈に疑問を感じ、わざと反対の「虞は姓としてだって成立しますよ」と書いてみせ、そうすることで、「この部分は司馬遷の解釈だから気をつけて下さい」と、暗に後世に注意を促した可能性だって残る。

 伝説の美女・虞美人は存在したのか、今となっては確かめようもない、ってことで、丸ちゃん、超美人なんてほとんどこの世に存在しないのだよ。これって、慰めにもならないか。

維新遷都計画、かくて首都は大阪に

 大阪「都構想」や維新政治塾の盛り上がりを見ていると、この国の首都を大阪に移し、人心を一新して、新たな時代を迎えてもいいのではないかと思ってしまう。実際、過去には国会でも首都移転が積極的に議論された時もあったのだから、そんなに突飛な話でもない。

 古代はさておいて、実はあまり知られていないが、この国で、大阪に遷都しようとした時が一度あった。明治維新が始まった慶応4年(明治元年、1868年)1月のことである。

 前の年の慶応3年10月に、徳川15代将軍・慶喜大政奉還し、12月には王政復古の号令によって、天皇を中心とする新しい政治体制が天下に布告された。そして、年が明けた慶応4年の1月3日に、鳥羽・伏見で戊辰戦争の幕が切って落とされ、6日には慶喜が海路、江戸に逃れ、この京都での戦いは新政府側が勝利。その後、17日には早速、新しい官制が定められ、有栖川宮熾仁(ありすがわのみやたるひと)親王を総裁とする新政府の体制が整備された。

 そして、それから6日後の1月23日、新政府の廟議(朝廷の評議)において「遷都」が討議され、この時、薩摩藩大久保利通によって「大阪遷都建白書」が提出されたのである。目的は「千年の都」の古い慣習を捨て、新しい天皇親政の国家を確立することであった(余談だが当時、薩摩藩の下級藩士であった大久保が、ここまでの「国家ビジョン」を持っていたことには、改めて驚いてしまう)。

 しかし、当然のことながら大阪遷都計画は難航する。明治天皇の外祖父にあたる中山忠能(ただやす)ら公家を中心に反対論が渦巻き、議論は大いに紛糾した挙げ句、大久保の大阪遷都案を否決してしまう。それでも、遷都論は以後も繰り広げられる中、4月に入り、後に日本の郵便制度を創設した前島密が、正式に江戸遷都案を提出したことで、一気に江戸遷都へと流れは傾いてしまった。

 そして、この年の9月8日に、慶応から明治へと改元され、20日には明治天皇京都御所を出発し、10月13日には江戸城に入城、東京城と改称して皇居とした。

 しかし、ではこの時に、正式に東京が首都になったのかというと、そうではない。日本の首都は「この日から東京に定める」という「遷都宣言」は、今現在に至るまでも行われていない。それは当時、遷都に反対する公家などに配慮して、また、なお函館などで続いている戊辰戦争の状況などを考慮して、あくまでも遷都という明言を避け、天皇の「行幸」という形で行われたからだ。

 いわば、天皇は「いまだに東国へ旅行されている」という状態が続いているのである。と、すれば、大阪遷都はそれほど難しくもないと思うのだが。どうだろう。

清盛、人気がないね〜

 今年のNHK大河ドラマ平清盛」の視聴率が冴えないようだ。3月11日に放映された第10回は知らないが、前週の4日については視聴率が13・4%だったことが、ビデオリサーチの発表で分かった。昨年、放送された「江〜姫たちの戦国〜」では、13%台は8月14日放送分(13・1%)の1回だけで、これがワーストだった。平清盛は2月12日に続き、早くも2度目の13%台だ。

 この不人気ぶり、分からなくもない。と言うのも、数十年にわたって大河ドラマの熱心なファンである私自身、今年はまだ一度も観ていない。理由は簡単。1月の初回放送日、新聞のテレビ番組欄で「清盛は白河院のご落胤」だ、と紹介されていたことによる。で、「アッ、そのストーリー展開か」と思い、そしてさらに、ということは、あの複雑怪奇な「保元の乱」と「平治の乱」も避けて通らないのだろう、と重苦しくなり、観るのを躊躇してしまった。

 さほど、保元の乱平治の乱前後の日本の歴史は分かりにくい。天皇家、藤原摂関家を始めとする貴族階層、それに平氏と源氏。さらには、そこに様々な女性が加わり、この相関関係をキチンと理解するのは、はなはだ困難を要する。
 
 例えば、清盛の生母とされる祇園女御は、白河院の寵愛を受けて懐妊した後、清盛の父である忠盛に下賜されて清盛が生まれた、と「平家物語」に書かれている。しかし、平家物語の成立は鎌倉時代以降であり、祇園女御は当時、40歳を超えていたとも言われており、真偽のほどは、今もって明らかではない。

 また、そもそも保元の乱に至ったいきさつとは、こうだ。

 白河院は寵愛していた藤原璋子(しょうし)を、自分の孫である鳥羽天皇に押しつけて中宮にした上で、その後も璋子とは閨を共にし続け、やがて、後の崇徳天皇が生まれた。しかし鳥羽にしてみれば、表向き自分の子であるが、誰がみても、崇徳は祖父である白河院の子である。実際、鳥羽は崇徳をおじさんであり、子供でもある「叔父子(おじご)」と呼んで、側に近づけず嫌っていた。

 そして白河院崩御の後、鳥羽院政が始まったのであるが、鳥羽がいつまでも崇徳を天皇にしておくはずはなかった。強引に退位を迫り、自分の本当の子である親王に譲位させた。これが近衛天皇である。崇徳は天皇から上皇(院)となった。しかし近衛が1155年7月、若くして崩御すると、鳥羽は崇徳の子を差し置いて、あの璋子が自分との間に産んだ実子を皇位に就けた。これが有名な後白河天皇である。崇徳の鳥羽や後白河に対する恨みは大きく、これが保元の乱につながった。

 敗北した崇徳は土佐に配流され、その地で恨みを飲みつつ亡くなり以後、「怨霊」となったとされている。天皇家120数代続く中で、唯一と言ってもいい「怨霊になった天皇」である。

 ということで今、崇徳を始め後鳥羽や後醍醐など恨みを飲んで亡くなった天皇を取り上げた「怨霊になった天皇」(竹田恒泰・著、小学館)を読んでいる。著者は昭和50年生まれ。現在、慶応大学の講師も務めているが、旧皇族の竹田家の出。

 実はこの竹田家もまた、数奇な足跡を刻んでいる。教科書的には全く知られていないのだが、明治維新の時、東北雄藩が同盟を結成し(奥羽越列藩同盟)、明治天皇の叔父にあたる輪王寺宮能久(りんのうじのみやよしひさ)親王天皇に擁立し、明治天皇を立てようとする薩摩、長州と対抗した。

 結局、仙台藩庄内藩を中心とした奥羽越列藩同盟は敗北し、能久親王は京都の朝廷に謝罪し、許され、後に親王は北白河宮を継ぎ、明治19年に大勲位を受けた後、明治28年、近衛師団長として、皇族としては初めて外国(台湾)で戦死している。

 そして、この能久親王の長男が竹田宮を創設し、明治天皇の第6皇女と結婚、恒徳(つねよし)親王をもうけた。この恒徳親王の孫が筆者である。

 してみると、筆者である竹田氏は男系で能久親王、女系で明治天皇の玄孫にあたるが、それよりも、天皇になろうとした能久親王の系統であるということに、なぜかしら崇徳天皇を重ね合わせてしまう。