前方後円墳

今年は2669年。エッと驚くなかれ。明治以降、昭和20年の終戦まではよく使われていた初代・神武天皇の即位を元年とする日本の紀年法では、今年は「紀元2669年」ということになる。ちなみにこの紀年法終戦とともにほとんど使われなくなってしまったが、公式に廃止されたわけではない。

そこで、神武天皇の即位をもって、今でいう日本という国家が成立したとするならば、これは西暦でいうと紀元前660年のことになる。この時代、お隣の中国では「周」の勢いが衰え、群雄が割拠する春秋戦国時代に突入したところ。始皇帝が「秦」という統一国家を樹立する紀元前221年の、さらに400年以上も前のことだ。

神武天皇が本当に存在したのかどうかも含めて、さすがにこの年を日本(ヤマト=倭)という国家の成立年と考えている人は、現在では少ないだろう。では、ヤマト朝廷という日本初の「国家形態」が誕生したのはいつ頃なのだろう。

私は最近では3世紀中頃、つまり西暦200年代中頃だと考えるようになっている。考古学的にはこの時代、近畿地方に、あの仁徳天皇陵で有名な「前方後円墳」が突如、現れた。そして、瞬く間に東北南部にまで伝播していった。

この前方後円墳は、面白いことにヤマトや吉備、出雲、北部九州といった複数の地域の埋葬文化が合わさって完成している。このことから、ヤマト朝廷の黎明期は、各地方首長の総意による集合体という形で始まった疑いが強いのだ。紀元前660年頃の神武天皇による日向からヤマトへの「東征」は、あくまでも仮想の話とせざるを得ない。

また、今上天皇(現・明仁天皇)まで125代続く天皇の中で、何らかの意味がある(多分、新王朝の成立)と思われる「神」の名が付くのは初代「神武」、10代「崇神}、15代「応神」の3天皇のみ(歴史学的には10代の崇神天皇神武天皇と見る説もある)。そう考えると、仁徳天皇応神天皇の息子という史実からも、前方後円墳が現れたこの西暦200年代中頃に、この日本列島において集合体による一つの巨大な勢力が出現し、それがヤマト朝廷へと発展していったと思うのである。

ただ、あの邪馬台国卑弥呼の死が西暦248年頃とされている。(私が考える)ヤマト建国と同時代の出来事であるのに、日本書紀では邪馬台国にも卑弥呼にも全く触れていない。編者が邪馬台国をここまで無視する歴史的意味合いとは一体、何なんだろう。