鬼室集斯

今夏、お盆休みで帰省した際、実家から車で20分ほどのところにある「鬼室神社」に、10数年振りに行ってきた。この神社の祭神は百済からの亡命貴族、鬼室集斯(きしつしゅうし)である。

鬼室集斯と聞いて「ピン」とくる人はよほどの歴史好きと思うが、かくいう私も10数年前に初めて訪れるまでは、鬼室集斯を祭った神社が、実家からこんなにも近くにあることに気づかずにいた。10数年前、鈴鹿山脈に沿って走る国道307号線に鬼室神社の案内板が掲げられていることに気がつき、その時偶然、行ってみたのだ。

日本書紀」の天智8年(669年)に、こんな一節がある。

「この年、佐平(さへい)余自信(よじしん)・佐平鬼室集斯ら男女700余人を近江の国蒲生郡に移住させた」と。佐平とは百済国の16品の官位の最高位で、その百済の最高位にいた貴族2人を筆頭に約700人の百済人を、今でいう滋賀県東近江市に移住させたのだ。

この時代、朝鮮半島では北に高句麗、東に新羅、西に百済があって3国が鼎立していたのだが、660年に唐と新羅の連合軍によって百済が滅ぼされた(ちなみに高句麗も668年に滅ぼされ、朝鮮半島には統一新羅という国が成立する)。その後、百済の将軍であった鬼室福信による百済復興の戦いが続くが、663年(天智2年)8月、わが国が派遣した水軍と唐の水軍が白村江で戦い、大敗を喫したことで百済復興運動は終止符を打つことになる。

鬼室集斯はこの福信の息子と言われており、白村江の敗戦後、百済から日本への亡命者が絶えない中、王族につながる鬼室集斯の一行もこのような亡命者であったようだ。

ただ、この百済からの亡命者には法政、学術、兵法、医薬などに通じた優れた人材が多く事実、天智天皇の近江朝において、初めて設けられた大学寮の「学職頭」(今でいう文部大臣兼大学総長)にいきなり鬼室集斯が補されている。鬼室集斯は亡くなる688年(持統2年)まで、この地で、700人の百済人と一緒になって未開の原野を田畑に変えていったのだろう。

この東近江市には、その名称からして、明らかに朝鮮半島を意識させる湖東3山の一つ「百済寺」(ひゃくさいじ)や、あの司馬遼太郎をして「眼前に広がった風景のあやしさについて私は生涯忘れることができない」と言わしめた、3重の石の塔(阿育王塔=あしょかおうとう)と数万の石塔と石仏が並ぶ「石塔寺」などが存在する。

私の家系は江戸期の天保年間まで遡れるらしい。しかし、そこからさらに千数百年遡ってこの時代にたどり着き、百済からの亡命人であることを突き止めることができれば、こんな愉快なことはない。渡来人(決して亡命人ではない)が、近江の国の発展に寄与した歴史的意義は計り知れないのだから。