胡亥

「秦を滅ぼすのは胡なり」。胡(こ)とは異民族のことであり、当時だと、中国北方のオルドス地方に居住(?)していた騎馬民族の「匈奴」などが、これにあたる。

秦の始皇帝は晩年、方士(呪術や占星術などを行う学者)の一人、盧生(ろせい)が提出した予言書にこう書かれていたことから、この異民族を警戒して、将軍の蒙恬(もうてん)に兵約30万を預け、匈奴討伐に向かわせていた。そして不老不死の仙薬を求め、自身にとって5度目となる巡行に出かけるのだが、その途次、紀元前210年に山東の沙丘という地で病死してしまう。

それは、春秋戦国時代の末期、前246年に秦王に即位、その後、前221年に史上初めて中国を統一し、皇帝を称するようになって11年後のことだった。

この時、20人ほどいたとされる始皇帝の息子の中で、とりわけ聡明だとされていた長子の扶蘇(ふそ)は、始皇帝が行った「焚書坑儒」(書を燃やし、儒者を生き埋めにする)に対して諫言したため、国境警備の監督を命じられ、僻地の蒙恬将軍の下に遠ざけられていた。そして巡行には、最愛の息子で末子の胡亥(こがい)が同行していたことが、秦にとっての悲劇の始まりとなる。

つまり、こういうことだ。始皇帝崩御にあたって遺言を残していた。それには「葬儀は扶蘇が取り仕切るように」と記されており実質、扶蘇を新皇帝に指名していたのだが、やはり、この巡行に同行していた宦官の趙高(ちょうこう)は、自分の意のままになる愚昧な胡亥を新皇帝にすべく、扶蘇には自害を求める偽の遺書を伝えたのだ。蒙恬将軍は、この遺書が偽物であると看破し、その旨を扶蘇に進言したが、扶蘇は「疑うこと自体、義に反する」と、それを受け入れず、偽命に従って自決してしまう。

そして、胡亥が新皇帝に就き中国史上、最も悪道の宦官と言われる趙高の望み通り、彼が政務を取り仕切ることになる。しかしそれは、人民に過重な労役を課し、恐怖政治そのものと言ってもいいものだった。早速、始皇帝崩御の翌年となる前209年には「陳勝呉広の乱」が発生、また、歴史上有名な「項羽」と「劉邦」も同様に反乱の狼煙を上げることになる。その結果、秦は前206年に滅びてしまい、項羽との戦いに勝利した劉邦が「前漢」を樹立する。

この、始皇帝が警戒した胡とは匈奴ではなく、胡亥だったということは、歴史のエピソードとして広く知られている。ただもし、始皇帝に対して諫言も辞さない扶蘇が即位していたなら、秦は15年で滅びることなく、数百年続く王朝となり、もっと違った歴史の展開があったのではないだろうか。それほど、始皇帝の進めた政治は良い意味でも、悪い意味でも魅力に富んでいた。時代と所は違えども、織田信長がもう少し生きて入ればなあ、と思う気持ちに通じるものがある。

今年も130万人近い新成人が誕生したが、「秦を滅ぼすのは胡なり」を「親(しん=おや)を滅ぼすのは子なり」と言い換え、歴史の深みを噛み締める。