「順」王朝

13世紀以降の中国の王朝を教科書風に順に並べると、「元」→「明」→「清」と続く。しかし正確にいうと、明と清の間には明末、農民反乱の指導者として北京を包囲し、明の最後の皇帝となる第17代の崇禎帝(すうていてい)に紫禁城の北にある景山で首を括らしめ、明朝を滅亡に追い込んだ「李自成」(りじせい)が建国した「順」という王朝が入ることになる。

実際、彼は皇帝として紫禁城玉座にも座った。この時、亡明の百官は拝賀し、李自成が皇帝として紫禁城の主になることを認めもした。紫禁城に入った李自成は、明の時代に六部と呼んでいた内閣の各省を「六政府」、皇帝の直属の秘書室であった翰林院を「弘文館」に改めるなど新しい官制を作る一方で、亡明の官吏についても、下級の4品以下の者はすべて採用している。これらの歴史を見れば、1644年に間違いなく順王朝は成立していたことになる。

しかし、順王朝と李自成が歴史に公認されることなく、単なる反逆者として扱われるのは、どうしてだろう。1番に挙げられるのは、この順王朝が40日ほどしか続かなかったことだ。明智光秀ではないが、まさに「三日天下」に終わっている。李自成は北京入城後、明の遺臣・呉三桂と、満州族で、その頃にはすでに「清」と称していた清の執政・ドルゴンの連合軍と戦い敗北、北京を追われている。

しかし、それ以上に大きな理由は、清が李自成を逆賊と見なすことで、自らが明の後継者となって討伐することを、万里の長城を越え北京に入城する、いわゆる「入関」の口実にしたからである。中国の雄大な慣習として、一つの王朝が終わると、それに取って代わった次の王朝が、前王朝の正史を編纂することがある。その慣習に従って「明史」を編纂した清の史官は、順王朝と李自成を認めないことで、自らの中国支配を正当化したのだろう。

近い歴史は政治によって影響されざるを得ない、という歴史の皮肉の一コマだ。ついでながら李自成は、1949年の中華人民共和国成立後は、毛沢東の意向もあって賊名を除かれ、農民による反政府反乱の英雄とされている。

小前亮の小説「十八の子 李巌と李自成」(講談社)を読了し、以上のようなことを考えてしまった。ちなみに十八の子とは、李という文字を分解すると「十」と「八」と「子」に分かれる。この小説では十八の子、つまり李姓の者が明に代わって王朝を開くという老婆の予言から、ストーリーを展開している。さらに、ちなみにこの小説では、李自成は紫禁城で皇帝に即位する直前に北京を追われているのだが。