燕雲16州

日本人にとって、歴代の中国王朝の中で一番、親近感を感じるのは、何と言っても「唐」(618年〜907年)だろう。日本はこの時代、初の女帝として有名な推古天皇飛鳥時代に始まり、天武・持統天皇から聖武天皇へと続く奈良時代、そして、桓武天皇が開いた平安時代の初期までと重なる。

まさに、日本が国家としての形を整え始めた頃で、特に奈良時代には、多くの遣唐使が唐の都・長安(現・西安市)に遣わされ、長期に滞在した学問僧などとともに、さまざまな文物や「律令制度」など先進的な体制、思想などを持ち帰った。後世、「盛唐」なる言葉で呼び表される通り、華々しい時代であった。また長安には、色目人と呼ばれる西域の人達も多く、国際都市でもあった。

しかしその一方で、唐は稀に見る軍事大国であったことも事実だ。最盛期には、唐軍はパミール高原を越え、天山山脈も越えて、版図は「漢」の時代よりも大きく広がった。ただ、こうした領土の拡大が、その王朝の偉大さを計る物差しになるのだろうか、と考える。唐が滅びた後、5つの王朝と地方政権などが入り乱れた50年ほどの「五代十国時代」を経てその後、樹立された「宋」と比べると、ますますその感を強くする。

宋は軍事面から見れば、弱小王朝だった。開封(かいほう)を首都とし一応、中国の主要部分は支配下に置いたが、現在の北京を中心とする「燕雲16州」は契丹族の「遼」に占領され、ついに取り戻すことはできなかった。取り戻すどころか、遼に続く女真族の「金」、さらにモンゴル族の「元」によって、ドンドン南に追いやられ「南宋」となり、結局は元によって滅ばされてしまう。

それでも唐に比べれば、宋は人々にとって住みやすく、かつ刹那的ではあるものの、楽しさを実感できる良い王朝だったと思う。碁盤の目のように整然とした長安の市街は、110のブロックに分かれ、そのブロックを「坊」と言い、それぞれに坊門があった。そして日没になると、それらの坊門はすべて閉じられ、あげく日が暮れると、自分達の住む限られた区画から外に出ることはできなかった。

開封は、そうではない。24時間営業の料理店が建ち並び、川には船を浮かべて風流を楽しみ、また5千人を収容する芝居小屋が繁盛するなど、夜になるとひっそり静まりかえった長安に比べて、ネオンこそないものの今の銀座、渋谷、新宿など、不夜城とも言うべき活気に満ち溢れた都市だった。

長安の華やかさは、一部の貴族のものであったが、開封の華やかさは庶民のものである。私が庶民として生きるとしたら、間違いなく、唐よりも宋の時代を選ぶ。