オランカイ

20年振りに司馬遼太郎の「韃靼疾風録」を読み返した。前々回のこのブログでも書いたが、小前亮の小説「十八の子 李巌と李自成」を読み、中国の「明」から「清」への変遷を題材にした小説によって、改めてこの時代を振り返ってみたかった。で、そういえばということで、韃靼(だったん)疾風録を思い出した次第。

チョット長くなるが、小説はこんな展開だ。

日本では豊臣家が滅び、徳川家がようやく天下泰平の世を作り上げつつあった時代。九州・平戸藩の松浦家に仕える下級武士・桂庄助が、船の難破によって平戸に流れ着いた韃靼(女真族)の公主・アビアを、藩の意向で女真の地に送り届けるところから始まる。

そして、大汗・ヌルハチの元に送り届けた後、ヌルハチの後を継いだ大汗・ホンタイジによって当時、中国や朝鮮の人達に恐れられていた日本人という「ブランド」を利用するため、日本からの大使とでもいうべき「日本差官」を名乗らされ、対明戦で各地を転戦させられるということになる。

女真の地に留まること数十年。いよいよホンタイジによって建国されていた清の順治帝の下、執政のドルゴンと共に明と一瞬、明の後を継いだ「順」に攻め込み、その最後を見届ける。しかし帰るべき日本は、徳川幕府による「鎖国」が始まっており、最後は明人として、女真を嫌ったアビアと一緒に日本に戻り、長崎の唐人屋敷で暮らし始めるという内容だ。

今回、20年振りに読んでみて、以前とは違った読後感を覚えてしまった。20年前は正直、ストーリーを楽しんでいたと思う。しかし改めて読み直すと、これは司馬遼太郎歴史認識を披露するための小説ではないかと思ってしまう。小説の部分は、司馬の歴史認識歴史観を支えるために書かれている。実際、小説では随所に「ここで筆者は庄助の代わりに調べ物をしなければならない」とか「ここは少し寄り道をしなければならない」といった書き出しで、司馬の歴史に対する思いが語られる。

そもそも、この小説の始まりからして、韃靼とは一体、どこを指すのだろうかと読者に問いかけ、それは「文禄・慶長の役」で加藤清正朝鮮半島奥深く、「オランカイ」と呼ばれる地にまで兵を進めた、このオランカイではないだろうかと語ることで、靺鞨(まっかつ)や契丹も含めたこの地の人々について、司馬独特の視線で見据えている。

イヤー、まいった。司馬の小説は齢(よわい)重ねるごとに読み直す必要がある。読み直すごとに、新たな小説として心に響く。昨秋、NHKで放映された「坂の上の雲」。これなぞも以前、読んだ時にはあまり気がつかなかったが、明治時代に対する司馬の歴史観が目一杯、披露されているはずだ。これも、20年振りに読み返してみるか。