逢坂の関

《夜をこめて 鳥の空音は はかるとも よに逢坂の 関はゆるさじ》(清少納言)。「小倉百人一首」にも入っている和歌の一つだ。この歌の意味って、こんなことらしい。「夜が深いのに、鶏のうそ鳴きで関所を開けさせようとしても、逢坂の関ではそうもいきませんよ」。

「逢坂の関」とは、今で言うところの京都と滋賀を分けている山の途中に大化2年(646年)、いわゆる「大化の改新」の翌年、置かれた関所のことだ。その後、奈良・平城京時代を経た平安時代中期以降は「不破の関」「鈴鹿の関」と併せ、平安京を守る「3関」の一つとして、つとに有名だ(平安時代前期までは、逢坂の関ではなく「愛発の関」が3関とされていた)。

ちょっと本筋から外れるが、この逢坂の関、それではどこにあったのか。文献などで特定できる場所はハッキリしないものの、滋賀県出身の私は、昔からこの辺りを車で走ることが多く、国道1号線沿いの逢坂山検問所の脇には、「逢坂山関址」という碑が建てられていることから、まあ、ここら辺りなのだろう、ということでいいのではないかと思っている。

どうして、清少納言のこの和歌を持ち出したのか。それは、前回のこのブログで書いた孟嘗君の「鶏鳴狗盗」のエピソードを下敷きにしているからだ。つまり、こういうことになる。孟嘗君は、物まねの上手い食客の一人に鶏の鳴き声をさせることで、関所の役人に、もう関所の扉を開くいつもの朝の時間が来たのだと勘違いさせ、開いた関所を堂々と通り抜けることで秦から脱出、死地からかろうじて逃れることができた。

この話、紀元前の中国・戦国時代の逸話として残っている。これを、平安時代に生きた清少納言が知っており、「中国ではそうであったとしても、日本の逢坂の関ではそうはいきませんよ」と歌ったところに面白みを感じる。

ちなみに百人一首ではもう一首、逢坂の関を歌枕として詠まれた和歌がある。《これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも 逢坂の関》(蝉丸)。

実は私は、こちらの和歌の方に親しみを感じる。というのも、今から何十年も前、正月には決まって親戚の同年代の子どもが集まり、絵柄のついた読み札を使って「坊主めくり」に興じていたものだが、その坊主めくりでは、確か蝉丸を引くと、対戦相手から取り札を15枚もらえたように記憶している(坊主めくりは全国でローカルルールがそれぞれあり、そうでないところも多いだろうが)。それで、百人一首の中で一番最初に覚えた歌が、この蝉丸の歌だった。

今日、仕事で関西に行き、新幹線と在来線(琵琶湖線)併せ都合4回、この逢坂の関があった山の下のトンネルをくぐった。で、こんなことを急に思いついた次第。