高野新笠

2001年の天皇誕生日前の恒例の記者会見において、今上天皇明仁天皇)は、翌年に予定されているサッカーワールドカップ日韓共催に関する「おことば」の中で「桓武天皇の母親は百済武寧王の子孫であると『続日本紀』に記されていることに、韓国とのゆかりを感じています」と、自分にもその血が流れているといった意味の発言を行い、周囲を驚かせた。

この発言、日本のマスコミはほとんど取り上げなかったが、韓国の一部のマスコミでは「日本の皇室は韓国人の血筋を引いている」などの記事となり、また米・ニューズウィーク誌も特集を組むなど、海外では大きな反響を呼んだ。

桓武天皇(737年〜806年)と言えば「平安京」の創始者として有名で、誰しも学生時代「鳴くよウグイス平安京」という語呂合わせで、794年に今で言う京都に遷都が行われたことを覚えたものだ。また武寧王(ぶねいおう)というのは、韓半島にあった「百済」の6世紀前半の王である。日本で言うと、26代・継体天皇から29代・欽明天皇の時代である。この時期、韓半島から多くの王族達が日本に渡ってきた。桓武天皇の母親は高野新笠(たかののにいがさ)と言い、新笠の何代か前は、武寧王を祖とするこうした渡来王族の一人だったのだろう。

古代最大の豪族である蘇我氏も、最近では百済からの渡来氏族であるという説が有力だ。その蘇我氏については、大化の改新(645年)で暗殺された蘇我入鹿(そがのいるか)の3代前の蘇我稲目(そがのいなめ)が堅塩媛(きたしひめ)、小姉君(おあねきみ)という2人の娘を天皇の后として嫁がせており、その子供達の中からは用明天皇推古天皇崇峻天皇が即位している。

この蘇我氏の例を見ても明かなように、日本の古代社会は渡来人なくしては成立し得なかったのではないかと、古代史を知れば知るほど思ってしまう。それほどこの当時、日本は百済新羅高句麗から学識僧や知識人を招き、古代社会の骨格を作り上げていったのだ。

今の韓国の大統領は大阪府出身で、日本にいた頃は月山明博という名前だった。また、北朝鮮金正日総書記の夫人の一人であった高英姫も、大阪府出身の在日2世で、60年代に家族と共に北朝鮮に渡った。そして、その子の正雲氏は北朝鮮の次期最高指導者になると言われている。

そこで、こんなことを考えてしまう。韓半島と日本を、日本海を挟んだ一つの文化圏として捉え、共に発展していく。これは、あまりにも浅薄な考えだろうか。北朝鮮との関係は別にしても、秀吉の朝鮮出兵韓半島では倭乱と呼んでいる)や、明治になっての日韓併合などがトラウマとなって、日韓の関係がきしんでいるとしか思えないのだ。