大久保彦左衛門

「新三河物語」(新潮社、全3巻)を読み終えた。宮城谷昌光の小説だが、これまで宮城谷が題材として取り上げていた中国の古代が物語の舞台ではないので、なんとなく敬遠していた。しかし宮城谷ファンの一人としては、そうとも言っておれず、宮城谷が日本の戦国時代を、また、そこに居たそれぞれの武将をどう切り取っていくのか、まずは読まねばなるまいと思った次第。

徳川の世になって、2代将軍・秀忠から3代・家光に移り変わろうとする元和から寛永の時代、大久保彦左衛門という武士によって書かれた「三河物語」というものがある(復刻版が岩波書店から出版されているらしい)。大久保彦左衛門というと、いわゆる講談や講釈で知られるようになった「魚屋の一心太助」との物語でつとに有名だが、れっきとした徳川幕府の旗本の一人だ。

この三河物語というのは、彦左衛門が三河・松平の時代から徳川の世になるまでの、徳川家と、家来筋の大久保家との関係や功績を語る中で、武士の生き方を子孫に残した家訓書である。

この、原本とでも言うべき三河物語を読んでいないので多分、そうだろうということで言えば、新三河物語は、この三河物語を下敷きにして書かれたのだろう。

さて「徳川四天王」という言い方がある。家康の側近として仕え、幕府の創業に貢献した「酒井忠次」「井伊直政」「本多忠勝」「榊原康政」の4人のことである。大久保氏はこの中には入らない。そもそも大久保氏は、松平が三河の地に興った時以来の最古参の家来筋であるにもかかわらずだ。家康の祖父が家来によって城を追われた時には、戻ってくるのに力を尽くしている。そして以後は、親から子へ、子から孫へと引き継がれる中、徳川と改名した松平氏が幕府を開くのに大きな貢献をしてきた。

その大久保氏が、関ヶ原の合戦後、忠世(ただよ)が千葉の大多喜城に続いて元々、北条氏の居城であった小田原城を拝することになる。そして忠世の嫡子、忠隣(ただちか)の時代になって、(これは所説いろいろあるのだが)結局、改易の憂き目にあい、小田原城は破却され、大久保一族も歴史の彼方に追いやられてしまった。その上、忠世を筆頭に10人兄弟だった一族は、それまでの度重なる合戦で討ち死にしたりした者もあって、忠教(ただたか)ほか数人しか残らなくなってしまっていた。この忠教が彦左衛門である。

いわば大久保氏は、徳川氏に誰よりも尽くし、しかし最後は、武断派武将を除き幕藩体制をより強固にしようとした家康によって、捨てられてしまうという悲劇の一族である。ちなみに、忠隣の孫の忠識(ただもと)の時代になって復活はしているのだが。

会社のために粉骨砕身尽くし、最後は会社に見捨てられてしまう。いつの時代でも、こうしたことはあるのだってことを、新三河物語を読んで改めて考えてしまう。