三内丸山遺跡

 青森市にある三内丸山遺跡に一度、行ってみたいと思いつつ、まだ行けないでいる。20年ほど前、青森県が野球場を建設するのにあたって事前調査を行った際、この遺跡が縄文時代(今から約1万2000年前から約2300年前)の大規模な集落跡(約5500年前から約4000年前)だということが分かり、野球場建設を中止し、遺跡の本格的な発掘と保存に乗り出した。そして、発掘調査は今も続いている。

 私の縄文時代に対する認識は、三内丸山遺跡の発掘が進むにつれ大きく変わった。確か子供時代、社会科の教科書には縄文時代の記述はほとんどなく、いきなり縄文時代に続く弥生時代の「登呂遺跡」が大きく取り上げられていた記憶がある。その結果、縄文人といえば定住せず、狩猟・漁労、採集で生活する貧しい人々という固定観念を持ってきた。

 しかし三内丸山遺跡は、この私の固定観念を覆したことになる。多分、多くの日本人にとってもそうだっただろう。昔の社会科の授業で、そうしたことを教えられなかったということだけでなく、誰しも、文明は時間と共に進化していくという歴史観に縛られていた面もある。それは、弥生時代に入って稲作がもたらされたことで、人々が定住し、豊かになっていったという歴史認識である。

 しかし、三内丸山遺跡の発掘状況を知れば知るほど、縄文時代弥生時代と比較して、文化的に遅れた非文明社会だったというのは間違いで、もしかすると、まだ米による富の蓄積などが行われていなかった縄文時代の方がはるかに豊かで、暮らしやすかったのではないかと思ってしまう。弥生時代に入り、米を備蓄できるようになり、その結果、富の概念を生んだとすればだが。

 これまでの発掘で、この大規模集落には巨大建築物があったことも分かっている。

 そして、実はこれこそが最大のミステリーかもしれないが、これまでに出土した人骨を分析する限り、縄文と弥生の民族はどうも違うということだ。弥生時代になって、新たに大陸から移ってきた民族が、先住民である縄文人を駆逐していったという学説もある。

 うーん、ここいら辺のことはよく分からないが、もう少し勉強してみるか。ちなみに、九州にある吉野ヶ里遺跡弥生時代のものである。こちらも見ることができ、三内丸山遺跡と比較することができれば、なんとか答が見出せそうだ。