王昭君

 以前から「匈奴」が気にかかっていた。紀元前5世紀頃から、モンゴル高原を中心とした北アジア一帯に、一大勢力を築いた遊牧民族というか、遊牧国家のことだ。そして、中国の五胡十六国時代を境に、内部分裂などを繰り返し、忽然と歴史上から姿を消してしまっている。ただ、この分裂した匈奴の一部が東欧や地中海諸国に進出し、後にフン族になったという説は有名である。

 さて、この匈奴だが、前漢を建国した直後の劉邦が、匈奴との戦いに敗れて捕虜となり、漢から毎年、貢ぎ物を贈ることを条件に開放された話や、劉邦の曾孫で第7代の皇帝である武帝が、衛青や霍去病(かくきょへい)といった将軍を擁して幾度となく匈奴を打ち破り、西域を漢の版図に組み入れたことなど、もっぱら漢との争いにおいて語られることが多い。
 
 匈奴の大首長は単于(ぜんう)と呼ばれるが、中でも、劉邦を捕虜にした冒頓(ぼくとつ)単于や、衛青らなどと戦った冒頓の孫・軍臣単于などがよく知られている。

 しかし、この匈奴を巡っては、何と言っても有名な物語は「王昭君」の悲劇だろう。王昭君楊貴妃や西施と並び、中国の四大美人の一人に数えられる。

 悲劇の物語とは、こういうものだ。前漢の第11代の皇帝・元帝の時代、時の単于・呼韓邪(こかんや)が、閼氏(あつし=匈奴の言葉で首長の妻)の一人とするため、漢の後宮の女性を求めてきた。その際、元帝は約3千人いたと言われる後宮の女性の中から、似顔絵帳を見て、一番醜い女性を選んだのだ。

 しかし、この似顔絵帳は、後宮の女性がそれぞれ絵師に賄賂を贈って、できるだけ美しく描いてもらっていたもので、それに嫌気がしていた王昭君は賄賂を贈らなかったため、醜く描かれていた。そして、最後の別れを告げるために現れた王昭君を見た元帝は、そのあまりの美しさに目を奪われたものの、匈奴との関係悪化を恐れ、そのまま王昭君を贈ったという次第。

 悲劇はさらに続く。呼韓邪の閼氏となった王昭君はその後、呼韓邪の死去とともに、匈奴の習慣に習い息子の妻となったのだが、それは、漢では不道徳と見なされ、不道徳の代表例として後世に伝わることになってしまったのだ。

 確か、何十年も前に井上靖の小説で、この王昭君の物語を読んだ気がする。図書館勤務の男性と、もう一人の男性との会話によってストーリーが展開していった。小説名は思い出せないが昨日、とても大切な女性を悲しませてしまったことで、こんなことを取り留めもなく書いてしまった。