真田幸村の遺言

 歴史小説の中には、アッと驚く着想に脱帽させられてしまうことがよくある。最近、読んだ「覇の刺客 真田幸村の遺言」(鳥羽亮祥伝社)も、その一つだ。

 徳川第8代将軍・吉宗が御三家である紀伊の藩主から将軍に上り詰めるまでの話だが、その吉宗、実は豊臣秀頼の曾孫であり、その吉宗が、これまた大阪夏の陣(1615年)で討ち死にした真田幸村の一子、大介の子にあたる幸真とともに、徳川家に取って代わって豊臣家の再興を目指すというものだ。小説では、8代将軍職の座を狙って尾張家と紀伊家の隠密群が死闘を繰り広げている。

 確かに、大阪夏の陣大阪城が落城した際、大介と秀頼が薩摩に逃れたという話は歴史のエピソードとして残っているし実際、鹿児島にはそれを裏付ける民間伝承も伝わっている。

 そして吉宗についても、将軍就任の裏に影の部分が見られるのも事実だ。どういうことか。吉宗は紀伊徳川家第2代藩主・光貞の4男として生まれたのだが、2人の兄は藩主の座に就いたもののいずれも若くして亡くなり(次男は早世)、生涯、部屋住みの身となるはずであった22歳の吉宗が藩主の座に就いたのだ。これは、稀に見る強運と言っていい。

 そして、それからさらに11年後にも、同様の強運に恵まれるのである。つまり、こういうことだ。6代将軍・家宣が亡くなり、その後を継いだ7代・家継はまだ4歳と幼い。そのため生前の家宣は、御三家の筆頭格である尾張徳川家徳川吉通に、将軍職か将軍後見職に就いてもらうよう腹心の新井白石に伝えていた。

 しかし、その吉通は家宣没後の翌年(1713年)、25歳という若さで亡くなり、その2カ月後には、吉通の嫡男で3歳になる五郎太も亡くなってしまう。その後、尾張家は他家に出ていた継友を呼び戻し、藩主の座を継がせたのだが一度、他家に出ていた継友が吉宗の対抗馬となり得ることはなかった。

 こうして、1716年に家継が8歳で亡くなると、吉宗に将軍の座が廻ってきたのだ。しかし、吉宗は紀伊藩主の時から、後に「お庭番」と呼ばれる隠密を巧みに使っており、2人の兄といい、吉通親子といい謀殺、毒殺の噂は当時からあったようだ。これが、吉宗の影の部分ということになる。

 それにしてもだ。小説では吉宗が建てた御三卿(一橋家、田安家、清水家)は、決して徳川家に将軍の座を戻さないためだったという展開には、またアッと驚いてしまう。実際、最後となる15代の慶喜を除き、吉宗の直系が途絶えた際には、この御三卿から将軍が出ている(慶喜は水戸家から一橋家に養子に出ている)し、明治になって徳川宗家を継いだ家達は田安家の出だったし。