「記紀」の不可解さ

 日本に、中国や朝鮮半島から文字が伝わった時期については、今のところ定説がない。一応、中学校の教科書などでは西暦300年代末頃、百済から王仁(わに)博士が「論語」10巻と、1千字の文字、いわゆる「千字文」1巻をもたらしたのが最初だと記述しているが、一般的には、537年に仏教とともに伝来したいう方が支配的だ。ただそれ意外にも、さまざまな説がある。

 どうしてこんな話を始めたかと言うと、以前から「記紀」、つまり日本書紀古事記に記載されている内容に疑問を持っていたからだ。記紀はいずれも奈良時代(概ね西暦700年代)に編纂された。

 古事記天武天皇の命により、太安万侶を通して稗田阿礼に作らせ、元明天皇に渡されている。一方、日本書紀にはそういう説明書きがないため誰が命じたものか分からないが、編纂者は舎人親王となっており、同親王天皇の秘書的立場に居たことから、これまた朝廷における正式な文書となる。すなわち、天武天皇が同時期に2つの歴史書を作らせたことになる。
 
 で、この記紀の中で、天武はそれまでの大王という呼び方から、初めて「天皇」という呼び方に改められており、そして、ここが重要なのだが、第40代の天皇だとしている点だ。その上で、初代・神武天皇以降の歴代39人の天皇の事績について、記紀は触れているのだが、記紀によると、神武天皇が即位したのは紀元前660年という。

 しかし、しかしである。紀元前660年と言えば、「神武」という文字もない時代のことである。にもかかわらず、天武本人あるいは編纂関係者は、彼らの1300年以上も前に生存した先祖の名前と生存年数ばかりでなく、その後39人の天皇の名前と生存年数、さらに結婚した相手や事績なども、丸暗記していたのだろうか。

 そんなことは不可能だ。自分自身に当てはめてみれば、直ぐに分かる。今から1300年前と言えば西暦600年代。推古天皇から聖徳太子を経て天智天皇に至る時代だ。そんな時代にまで遡り、自らのルーツを辿れる日本人は居るのだろうか。

 記紀の不可解さはまだまだあるが、今日のところはここいら辺りで。

 それよか今日、私が住んでいる練馬は38・1度を記録した。今夏の全国最高気温だという。パソコンから放出される熱が堪えるってか。