趙高、高力士、魏忠賢

 本日から、宮城谷昌光の「三国志」第8巻を読み始める。

 で、ということでもないのだが、改めて宦官について考えてしまう。というのも、三国志の英雄・曹操は宦官の孫で(実際は養子)、後漢末、宦官による政治の壟断が顕著になり、こうした宦官集団を徹底的に抹殺した一人が、宦官の家系で育った曹操だったのだ。しかし時すでに遅く、宦官が専横を極めた結果、後漢王朝の屋台骨は完全に傾き王朝自体、この時点で実質的に滅亡してしまう。

 ま、それはさておくとして、そもそも宦官とは一体、どういう存在なのか。その歴史は古い。中国史上、宦官の誕生は3000年以上も昔、商(紀元前1700年頃〜同1100年頃、私の学生時代は殷と習ったのだが)の時代にまで遡ることができる。以後、20世紀初頭、清が滅亡するまで宦官は連綿として存在し続けた。

 元々、宦官は征服した異民族の捕虜や罪人を去勢し、宮廷内部で用いたことに端を発するが、時代が下り、宦官が隠然とした勢力を誇るようになると、「自営」(自ら去勢すること)し、宦官を志す者が増えていった。そして彼らは、皇帝の私生活や裏の顔を知り尽くし、いつしか皇帝を陰で操る存在となっていく。

 そこで、宦官と言えば後漢時代、世界で初めて紙を発明した蔡倫など知性派の宦官も存在するのだが、やはり歴史に名を残すのは、「悪徳代官」ではないが「悪徳宦官」の方だ。

 私なりに、この悪徳宦官というか歴史上、悪名高い宦官3人を挙げるとすると、秦の時代の趙高、唐の高力士、明の魏忠賢ということになる。

 趙高は始皇帝の死後、その遺言に反して一存で長子ではなく末子を皇帝に据え、わずか3年ほど後には秦王朝を滅亡させてしまった。

 高力士は女帝・則天武后の没後、玄宗を皇帝に押し上げる最大の功労者となり、権勢並ぶ者なき栄耀栄華を極めたが、「安禄山の乱」の後、玄宗の後継者・粛宗によって流刑に処せられた。この安禄山の乱そのものが、高力士による腐敗政治を正すために起きたとするならば、唐王朝の崩壊を加速させたという点で、その罪は大きい。

 そして、魏忠賢である。私の中ではこの魏忠賢が最悪の宦官との認識がある。まだ少年だった第16代・天啓帝の絶大の信頼を得て、陰の内閣の主導権を握るや恐怖政治を断行。全国に張り巡らされた「東廠」というスパイ網を駆使して、自分に対して批判的な言辞を弄する者を草の根を分けて摘発し、皆殺しにした。しかし高力士同様、天啓帝を継いだ崇禎帝が即位した途端、逮捕されて自殺した。これによって、前代未聞の宦官天下は終わりを告げたのだ。

 つまるところ、性的不能者の宦官は、王朝が下り坂に差し掛かり腐り始めた時、皇帝に寄生して繁殖し、王朝自体の腐敗を加速度的に進行させる。時代を問わず、宦官の滅びる時と王朝の滅亡の時が一致するのは、おそらくこのためだろう。

 それにしてもだ。古代日本は、中国から律令制度など様々な文明・文化を移植したが、この宦官制度だけは取り入れなかった。どうしてだろう、と、ふと思ってしまう。