保元の乱と平治の乱

 平安時代末期に起きた「保元の乱」と「平治の乱」を読み解き、そこに至った背景を理解するのはなかなか難しい。

 まずは保元の乱後白河天皇を中心に源義朝平清盛、関白・藤原忠通が加わる勢力と、対する崇徳上皇側には、義朝の父・為義と義朝の弟・為朝、清盛の叔父・忠正、忠通の弟で左大臣の頼長が加担し、朝廷が2派に分裂して争われた。

 そもそもは「院政」を敷き、当時の権力者であった鳥羽法王が、近衛天皇の病死にあたり、自分の子を天皇にしたい崇徳の意向を無視して、崇徳の弟を後白河として即位させたことに端を発する。鳥羽法王が崩御した1156年に起こった。

 結果は後白河側の勝利に終わり、崇徳は讃岐に配流、頼長は矢に当って死に、為義と忠正は斬首、為朝は伊豆大島に流された。

 そして平治の乱勝利者側となったものの、後白河とその腹心・藤原信西に重用される清盛と違って、冷遇され続けた義朝が信西と敵対する藤原信頼と結びつき、1159年、清盛が京を留守にしている間に義朝軍は信西を殺害、しかし、急ぎ京に戻った清盛軍に敗れ去った。その後、清盛は太政大臣にまで上り詰め、平家が滅んだ後は、1192年以降、源氏による武家政権の時代を迎える。

 藤原摂関家から政権を取り戻すため、後三条天皇から約100年にわたって続いた院政の時代は、これをもって終わりを告げた。

 これが表面的な歴史の流れだ。しかし天皇家、藤原摂関家、さらにはそれを取り巻く貴族や、新興勢力として台頭してきた武士の間に、さまざまな婚姻関係や養女などの結びつきがあり、そこを分からずして、この平安末期に起きた動乱を理解することはできない。

 この時代の天皇系図に少し触れておく。第71代・後三条天皇以後、白河、堀河、鳥羽、崇徳、近衛、後白河、二条、六条、高倉、そして高倉と清盛の娘の徳子(後の建礼門院)との間に生まれ、幼くして壇ノ浦に身を投じた第81代・安徳天皇と続く。

 中でも、長く続いた藤原摂関家つまり藤原北家の権威を、台頭してきた武士の勢力を利して排除し、院政という独裁的な政治体制を確立した72代・白河天皇が、白河院として院政を敷き始めたころから、この平安末期の混迷が始まったと思う。

 白河院と言えば「加茂川の水、双六の賽、山法師(比叡山の僧兵)」が意のままにならない(天下3不如意)だけと公言し、権勢を極めた人物だ。

 その白河院。女性についても「英雄 色を好む」がごとくお盛んだった。その一人が「待賢門院璋子」(たいけんもんいんたまこ)。白河院の養女にして愛人だったという数奇な運命を持った女性である。

 そして白河院は、その愛人を自らの孫である鳥羽帝に嫁がせたのだ。生まれたのは崇徳を始め7人の子。この内、何人かは白河院の胤であるとされており実際、崇徳は父の鳥羽帝から「叔父子」と呼ばれていた。祖父の子であるから、孫の鳥羽帝から見れば、父の弟すなわち叔父にあたる。子にして叔父、叔父子である。

 この鳥羽帝と崇徳帝の対立が保元の乱の遠因とされている。

 さらに、こうした婚姻関係の複雑さはさまざまにある。もう一つ例を挙げるなら「祇園女御」(ぎおんにょうご)。女御というのは本来は下級女官だが、白河院の寵愛を受けて御所を仕切るまでになった。しかし高齢であるため、子を産むことはできなかった。

 その祇園女御のために取った養女が璋子(たまこ)だ。そして、璋子が鳥羽帝に嫁いだ後、女御は妹に生ませた赤子(白河帝の落胤)を育てることになる。白河帝はこの赤子を側近の武士・平忠盛に与えた。そして、その赤子とは平清盛、その人だ。

 こういった話が嘘か本当かは知らないが、さまざまにある。ここら辺を理解しないと、保元の乱平治の乱を読み取れない。で、ここら辺を理解するのはということで、三田誠広の「西行 月に恋する」「阿修羅の西行」(いずれも河出書房新社)をお奨めする。

 それにしても、昨今の民主党の外交を見ていると、徳川政権末期に起こった「尊皇攘夷」運動が始まってもおかしくない情勢だ。菅総理天皇の前で「いついつまでに攘夷を実行する」と誓うことになるかもしれないぞ!