十津川郷士

 司馬遼太郎の歴史エッセー「街道をゆく」シリーズの第12巻は、舞台が奈良県十津川村だ。このシリーズ自体、今から30年ほど前に週刊朝日に連載されていたものが、その後順次、朝日新聞社から単行本化されたものだ。

 そして「十津川街道」と副題が付いたこの12巻は、いきなり坂本龍馬暗殺のエピソードから始まっている。龍馬は慶応3年(1867年)の旧暦11月15日、京都河原町四条上ルにあった醤油屋・近江屋の2階で、同じ土佐藩出身の中岡慎太郎と共に暗殺された。

 宵の口、不意に訪れた暗殺者は「私は十津川郷の者だが、坂本先生はご在宅でしょうか」と、応対に出た下僕の藤吉に言い、藤吉は相手が大和の十津川郷士だと聞いて安心し、渡された名刺を持って龍馬が居る2階に行こうとした。その挙動で龍馬が居ることが分かった暗殺者は、素早く階段を駆け上がり、龍馬と慎太郎を斬り殺したのだ。そして司馬は、それが幕府見回り組の佐々木唯三郎以下数人による犯行だったと、明治になって分かったとしている。

 しかし、司馬はここで龍馬の死について語ろうとしているのではない。「十津川郷の者」と、その暗殺者がわざわざその地名を名乗り、そのことで、藤吉が味方だと思いこんだことに注目しているのだ。

 十津川村奈良県吉野郡の奥に広がり、県の最南端に位置する。これまでも町村合併の話はあったようだが合併せず、ここ数年の平成の大合併でもそれに応じず、いまだに村という行政単位を維持している。「十津川という渓流が岩を噛むようにして紀州熊野に流れ、平坦地はほとんどなく、秘境という概念がこれほど当てはまる地域は日本でもまずない」と、司馬は言う。

 十津川の住人は、古くは672年に起きた壬申の乱天武天皇に加担したことや、平安末期の保元の乱では、悪左府と呼ばれた藤原頼長が「今に十津川の者が駆け付けてくれる」と望みを託しながらも敗死したことなどが、歴史の事実として残っている。

 その後、後醍醐天皇を助けたこともあるが、いわゆる秀吉の「太閤検地」によって、石高は千石とされ(早い話、米はまったく採れないから、まあ千石程度にしとこうかということ)、江戸時代には、大和の地は幕府の直轄領いわゆる天領とされ、五條に置かれた代官所の支配を受けている。武士は一人も居ず、住民はすべて農民だったようだ。

 それが幕末になって、そうした農民が自分の意思で京に上り、自主的に御所の護衛に就いているのだ。京には、こうした十津川郷士のための屋敷まであったという。

 そこで、この精神的な風土というか土壌は、どこから来ているのだろうかと考えてしまう。幕末、勤王の志士と結びついたといっても、それは多分、勤王の思想ではないだろう。貧しい土地柄ゆえ、その時々の権力と上手く付き合っていかざるを得なかったのかもしれない。とすれば、十津川の人達は幕末、すでに徳川幕府の崩壊を見越していたことになる。あの奥深い山の中から。

 こうして考えていくと、こりゃもう少し、十津川のことについて勉強しなくちゃいけないなと思ってしまう。しかし、その手の本ってあるのだろうか。まあ十津川に行って、役場で資料を収集するのもいいかもしれない。来春にはいこう。

 それはそうと、NHKの「龍馬伝」は先週、最終回を迎えた。毎週かかさず視聴していたのに、この最終回だけを見過ごしてしまった。龍馬の最後は、どう描かれていたのだろうか。気になって仕方がない。