蘇我氏の謎

 謎に満ちた古代史上、最大の豪族と言えば、間違いなく「蘇我氏」が挙げられる。稲目に始まり馬子、蝦夷、入鹿と続いた蘇我本宗家は、その有名さに比べて今なお未解明の点が多く、また歴史学会においても、共通認識が得られていない点が少なくない。

 そもそも稲目は、どこから来たのだろう。このように言うと、蘇我氏は建内宿禰に始まる氏族であって、宿禰の子が蘇我石川宿禰、その子が満智、その子が韓子、その子が高麗で、高麗の子が稲目なのだから、そのような設問は意味がないと言われかねない。であるならば、稲目はどこから来たのかというのではなく、蘇我氏は一体どこから来たのか、つまり、蘇我氏の発祥の地はどこなのだろうと言い換えよう。

 それについて、これまでのところ学会では、次の4説があるようだ。①大和国高市郡曽我説②大和国葛城地方説③河内国石川郡説、それに④百済からの渡来説。それぞれに賛否両論はあるようだが、私は今のところ、④の百済からの渡来説を支持する。

 満智の名前が、ほぼ同時代の百済の有力豪族・木満致の名前と類似し475年、百済漢城(今のソウル)陥落の際に、満致が文周王を擁して「南行」したとされており、その後、百済側の資料に満致の名前が現れない。また満智、韓子、高麗という3代の名前は、いかにも朝鮮半島と関係が深い。

 そんな訳で、これまでも蘇我氏について知るために、いろいろな文献を漁ってきたのだが、さすがに今回読もうとした「蘇我氏シルクロードから渡来した 飛鳥文化のルーツはメソポタミアにあった」(久慈力著、06年刊、現代書館)は、あまりにも話が飛躍していて、その説に付いていけず、途中で読むのを諦めてしまった。

 645年の大化の改新の際、入鹿が中大兄皇子中臣鎌足によって殺害され、これによって蘇我本宗家が滅びたことや、これも歴史上唯一の天皇暗殺とされる、592年に起きた馬子による崇峻天皇の暗殺事件(実際には馬子の命によって東漢直駒が手を下す)などは、いずれも教科書にも載っている歴史的事実として知られている。また奈良県明日香村にある「石舞台」は、馬子の墓とも言われている。

 しかし、こうした断片的な事実だけでは、蘇我氏の全体像は何もつかめない。何か画期的な学説や新たな考古学的発掘などを待つばかりである。

 それはそうと先月、1泊2日で房総半島を巡ってきた。新井白石が若かりし頃、過ごした久留里城や、館山城の裏手にあり「南総里見八犬伝」の題材にもなった、切腹した8人の武士の墓に参ってきた。しかし、以前からもう一度、行きたいと思っていた672年の壬申の乱で亡くなった大友皇子を祭った神社(20年ほど前に偶然、車で通りかかっただけで、どこにあったのかキチンと覚えてはいないのだが)に行くことを、すっかり忘れていた。残念。

 もう一つ。JR千葉駅の近くに蘇我という駅がある。ここは、壬申の乱で敗れた蘇我氏の傍系のある者が、そこに逃れたことで付いた地名だという。で、この蘇我駅近辺で、このことを傍証するような所はあるのだろうか。あれば行きたい。