周瑜の死

 先週日曜日(16日)の夜、テレビ朝日系列で放映された映画「レッドクリフ パート1」。

 観た方も多いだろう。私もその内の一人だが、案の定、劉備諸葛孔明が聖人君子のように扱われていたのには、違和感を覚えてしまった。史実では、特に劉備については、後の世に喧伝されているほど聖人君子であったとはされていない。これは明らかに、曹操を悪玉、劉備を善玉に仕立て上げ、明の時代に創作された「三国志演義」を下敷きにしているからだろう。

 「三国志」の中でも、最大の決戦であった西暦208年の「赤壁の戦い」。当時、最強の勢力を築いていた魏の曹操が、自ら80万とも言われる大軍を率いて南征の軍を起こしながら、呉の孫権と蜀の劉備の連合軍に大敗を喫した一戦である。これで曹操は、天下統一の野望をひとまず諦めざるを得なくなり、天下の状勢は「三国鼎立」へと動いていく。そういう意味では、時代の流れを決定づけた一戦であったと言ってもいい。

 だが、この赤壁の戦い、実は曹操と、映画ではトニー・レオン演じるところの呉の大軍師であった周瑜(しゅうゆ)との戦いであった。劉備孔明は実際、何もしていない。パート1では、そこいら辺はキチンと描かれているのだが、私がこだわりたいのは、この周瑜赤壁の戦いの2年後となる210年(建安15年)に、36歳の若さで亡くなっていることだ。

 正史「三国志」呉書・周瑜伝には、周瑜の最後が次のように簡単に記されている。「瑜 江陵に還り行装をなさんとするも、巴丘に道して病卒す、時に年三十六」。これによると、周瑜は呉の都・京(建業の東、現在の鎮江)から江陵に帰る途中、巴丘で病気のために他界した、ということになる。

 確かに、三国志の英雄達の死に方や死因はハッキリしない場合が多いが、それは、正史・三国志しか信頼できる資料がないことに尽きる。しかし、それでも周瑜の死については、亡くなった時期が赤壁の後、蜀と荊州を巡る争奪戦が一段と激化していた頃でもあり、何となく謀殺の匂いがしないでもない。

 これまでは、赤壁の戦勝の勢いを駆って、その後、長江を渡って魏に攻め入り、魏将・曹仁と戦った時に流れ矢が左の鎖骨に当たり、それがもとで、2年後に亡くなったと見るのが一般的だった(映画では、赤壁の前の地上戦ですでに張飛か誰かをかばう形で矢を受けたようだが)。

 しかし史書では、病気で亡くなったとされているのだ。「魯粛伝」の中でも、周瑜の病因などについて「身を慎まなかったために、その途上(江陵からの帰還の途中)にあって急病を得、先頃から治療に努めておりますが、病勢は募るばかりで衰える気配がありません」とある。とすれば、流れ矢がもとで亡くなったのではなく、やはり、何らかの病が原因で亡くなったということだ。

 これについて歴史作家の桐野作人は、95年に「赤壁の後、荊州の地の争奪を巡って呉と争っていた蜀の劉備孔明、それに密かに蜀に通じていた魯粛が『天下3分の計』を成すために、蜀の地にまで攻め込もうとしていた周瑜が邪魔になり、謀殺したと見ることもできる」と、大胆な推理を行っている。

 週末の23日に放映される「レッドクリフ パート2」は、こんなところにも注意しながら観ると、面白いかもしれない。