藤原不比等

 藤原不比等と言えば、今では、古代史ファンで知らない人はいないだろう。ここ20年ほどの間に、多くの古代史ファンに知られるようになった。歴史の教科書には決して出てこない。不比等が知られるようになったのは多分、黒岩重吾の小説によるところが大きい。かく言う私も、その時代の中で、どういった歴史的役割を果たしたかなどは、この小説によるところが大である。

 後に天智天皇となる中大兄皇子と共に645年、乙巳の変と、それに続く大化の改新を遂行した中臣鎌足の次男であり、平安時代になって、我が世の春を謳歌した藤原一族の礎を築いた南家・武智麻呂、北家・房前(ふささき)、式家・宇合(うまかい)、京家・麻呂、いわゆる藤原4兄弟の父親である。

 また、娘の宮子は文武天皇の后になり、この宮子が生んだ皇子が後の聖武天皇である。ついでに言うならば、不比等はもう1人の娘・安宿媛(あすかひめ)を、この聖武の后にしている。そして、この2人の間に生まれたのが、後の孝謙女帝だ。

 こうして娘を次々と天皇家に送り込み、天皇家外戚となった藤原氏による「摂関政治」を作り上げた事実上の創設者だ。

 しかし、この不比等天智天皇の息子である大友皇子と、天智の弟・大海人皇子(後の天武天皇)が争った672年の壬申の乱で、(乱の時にはすでに亡くなっていたが)父・鎌足が敗北した近江朝側だったということもあり、30代半ばまで乱後、匿ってくれた田辺という豪族の姓を名乗るなど、不遇の時代を送っている。

 それが、天武に続く持統の時代になって、いきなり召し出され、瞬く間に立身を遂げ、律令の最高位である左大臣にはなれなかったものの(死後、太政大臣を贈られている)、大宝律令養老律令の編纂に大きく関わり、律令制度の基礎を作った。

 しかし不比等が、どうして持統の代になって、これほど頭角を現すことになったのか。

 これについては、天智の子だったという説がある。鎌足は654年、天智から紫冠を授けられるが、その時同時に、天智の2人の妻をもらい受けている。1人が采女の安見児(やすみこ)で、その時、鎌足は「吾はもや安見児得たり 皆人の得がてにすとふ安見児得たり」という歌を詠んで喜んでいるのだ。当時は、非常に親しい王と臣下の間で、王が妊娠させた女性を臣下に下げ渡すことが行われていた。このことから、不比等は天智の子である可能性が高いというのである。

 そして天武の妻でありながら、天智の娘でもあった持統が、天皇家の系統を、一説によると、今一つ出自の定かでない天武から天智系に戻すため、ひょっとすると、自分の弟であるかも知れない不比等と共同でそれを進めたというのだ。

 事実、歴史では天武→持統の後は文武→元明(女性)→元正(女性)→聖武孝謙(女性)→淳仁→称徳(孝謙重祚)と続き、孝謙の死後、孝謙が未婚で子供がいなかったことから、天智の孫・白壁王が光仁天皇として即位。光仁の子は第50代・桓武天皇として、平安京を開くことになるのだが、これで、天武の系統は断絶することになる。

 天武が本当に天智の弟だったかも含め、ここら辺の歴史の裏面はさまざまな読み解き方があり、実に面白い。ちなみに今、読んでいる永井路子の「美貌の女帝」では、推古以来100数十年続く「蘇我氏の血」を維持するため、持統、元明、元正と3人の女帝が、藤原氏による天皇家壟断を図る不比等と争うという、まったく別の視点で物語を起こしているのだが。