万世一系による君臨の血脈

 あの大震災から4カ月が経つというのに、未だに精神的な動揺が続いている。一度に数万人が亡くなるという事態に遭遇し、人生観だけでなく、これまでの歴史観や文明観といった様々な精神的な拠り所を喪失してしまったようだ。こんなことを漠然と感じている人も多いだろう。こうした、ある種、将来を悲観する苛立ちや脱力感に対して、既成のあらゆる価値観や政治的あるいは経済的、さらには文化的主体や行為はあまりにも無力だ。

 中でも政治の混乱は、この国が二度と立ち上がれないのではないかとすら思わせてしまうほどだ。

 そこでだ。「何とかならないのか、この国の政治」。そう考えた時に、誤解を恐れずに言うと、現在の天皇陛下明仁天皇)を軸として、国の再建をもう一度、考えてもいいのではないかと思ってしまう。それは、リーダーシップが全く期待できないこの国の有り様に対して、天皇の立ち位置を少しばかり前面に押し出した体制で、という意味においてだ。決して、戦前の天皇を中心とした体制への回帰ではない。

 現行の日本国憲法は世界中、どの国の憲法でも最重要事項を規定する第1章を「天皇」とし、そこで天皇の地位・役割などを明示している。第1条と第2条によれば、天皇は日本国を代表し、全国民を統合する「象徴」の地位にあり、その皇位は皇統に属する継承者が「世襲」する。つまり、わが国は「象徴世襲」の天皇を有する「立憲君主国」にほかならない。であるならば立憲君主国として、上述の私見は、そう無理を感じないのではないだろうか。

 また第6条によれば、天皇は「国会の指名に基づいて内閣総理大臣を任命する」「内閣の指名に基づいて最高裁判所の長たる裁判官を任命する」という格別な役割を担っているのだが、このことは、3権分立の原則をとる現体制下では、総理大臣も最高裁長官も、最終的に国家・国民の全体を代表する象徴天皇から任命されることによって、初めて公的権威を付与されるという意味で、天皇が3権の内の2権に少しばかり関与することも、そう違和感を覚えない。

 さらに言うならば、第7条では、天皇が「内閣の助言により、国民のために・・・・行う」国事行為を10項目に分け挙げているが、それらを整理すると、国事行為の内、まず①憲法改正・法律・政令および条約を公布すること②国会を召集すること③衆議院を解散すること④国会議員の総選挙の施行を公示すること−−の4項目が挙げられる。

 これらは「国政に関する機能を有しない」けれども、国家・国民を代表する象徴天皇が、これらの詔書に御名を(今上陛下なら「明仁」と)書かれて、侍従に御璽(公印)を捺さしめられて、初めて正式に公布されることになる。天皇が認可・授与される書類は実に年間、1千件を超えると言われており、これだけでも、天皇が実に政治に詳しいことの証左になる。

 大震災後の復旧・復興が遅々として進まない中で、直接民主主義も崩壊したと言わざる得ないほどの政治の堕落振りに、こんなことを考えてしまった。憲法や政治に詳しい博識の方には、何をバカなことを、とんでもないことを、と相手にされないことは十分、承知のうえで、神武天皇から今上天皇まで125代続く「万世一系による君臨の血脈」でしか、この国を救えないのではないか、と悲壮な思いでいることは、これもまた事実である。

 歴史を振り返ると、蘇我氏から権力を奪い返した天智天皇、藤原摂関家から政権を取り戻した白河上皇、北条氏による武家政治に立ちはだかった後鳥羽上皇、そして何よりも天皇親政を実現しようとした後醍醐天皇など、強力無比な天皇は歴史上、多く存在する。

 今ここで再度、天皇にほんの少しばかり政治に関与してもらうことは、歴史の逆行ではなく、歴史は繰り返すという意味で、現代版にアレンジした天皇制を検討することを敢えて提起したい(アナグロ・ナンセンスなブログになりました。スミマセン)。