実在しなかった聖徳太子

 日本人にとって歴史上、一番有名な人物といえば、それは間違いなく「聖徳太子」だろう。以前は、1万円札に肖像が描かれていたし、教科書的にいえば「冠位12階・17条憲法の制定」「随との国交樹立」「仏典の注釈書・三経義疏(さんぎょうぎしょ)を記した」というところだろうか。これらのことは、日本人であればほとんど誰もが知っている。

 その聖徳太子歴史学の世界では、ここ10年ほどの間に、その存在がほぼ否定されているというのだ。というか、存在を否定する学者に対して、「そうではない、実在した」と、論陣を張る歴史学者がいないというのが実情らしい。まあ、あまりにも国民的英雄すぎて、このことについて今さら議論するのは、タブーに触れることへの恐れがあるのかもしれないのだが。

 そこで、私はというと、多くの日本人がそうであるように、中学校などで歴史を習って以降、ズッとその存在を疑うことはなかったのだが、最近では「九州王朝説」を知るにつれ、大和朝廷とは別に、九州にあった別の王朝の大王であったのだろうと、ここのところは、そう思っている。

 これは以前にも書いたが、当時の日本から隋に送られた使者、いわゆる遣隋使について、隋の正式な国史である「隋書東夷伝」では「大業3年(607年)、その王・多利思比弧(タリシヒコ)、使いを遣わして朝貢す」と記しており、また翌年、この使者が帰国する際に、日本の国情を探るために同行してきた裴世清(はいせいせい)は帰国後、煬帝に「日出ずる処の天子は男帝だった」と報告している。

 歴史的には、当時は推古天皇の時代である。しかし推古は女性であり、またタリシヒコという名前でもない。では、聖徳太子かというと、太子に姓などはない。こんなことから、九州王朝の大王が遣隋使を派遣し、それを「日本書紀」の編者は、聖徳太子という架空の人物の功績として取り込んだのだろうと思っている。

 しかし、それにしてもだ。改めて聖徳太子についてみてみると、あまりにも謎が多いというか、分からないことが多すぎる。そもそも、聖徳太子という名前からして本名ではない。日本書紀聖徳太子と出てくるわけではなく後世、こう呼ばれたから仕方なく言い習わしているだけなのだ。

 では、その日本書紀には、どう書いてあるのか。「厩戸(うまやど)皇子」「豊聡耳(とよとみみ)聖徳」「豊聡耳法大王(のりのおおきみ)」「法主王(のりのうしのおおきみ)」などと書かれている。これ以外にも、まだまだいくつもの名称が出てくる。どれが名前なのかサッパリ分からない。

 それに、生まれ方も奇妙だ。聖徳太子の母は宮中の馬屋の戸に当たって、苦もなく聖徳太子を出産したという。この伝説って、どこかで聞いたことがある。そう、キリスト生誕説話にソックリなのだ。すでにこの頃、キリスト教はお隣の中国に伝わっており、それは「景教」として、それなりに普及し始めていた。日本書紀の編者が、この話をコッソリ、パクッたのは間違いない。

 話を戻そう。

 では、今の歴史学の世界では、どう認識されているのだろう。どうも、あの飛鳥時代には、今の天皇家につながる大王も含め、複数の権力が存在していたということで、したがって、聖徳太子の父とされる用明も、また推古も単に一権力基盤のトップであり、実質的には、蘇我馬子が権力を握っていたというのだ。この時点では、今日言われている天皇の権力は確立されていなかった。

 これらのことから、裴世清が会った天子とおぼしき人物は、馬子ではなかったのかということであり、さらにこのことは、蘇我氏が事実上、最高権力者であったがゆえに、645年の乙巳の変(大化の改新)では、後の天智天皇中臣鎌足によって入鹿が惨殺され、馬子の子で入鹿の父親であった蝦夷も、これを悲嘆して自害。こうしたことを通じて、やっと天皇の権力が確立されるに至ったというものだ。

 では、どうして、聖徳太子という架空の人物を日本書紀に挿入したのだろう。詳細については、これから調べるとして、強力な天皇を作り出すことで、そこに取り入って権力を得ようとした人物がいたのだろう。どうも、その人物あるいは黒幕は、鎌足の子である藤原不比等のような気がしてならない。

 管首相じゃないが、権力の旨味を知ると、これを決して手放したくはないのだろう。