孔明の涙

 「泣いて馬謖を斬る」という言葉がある。どれほど有能な人物であっても、失敗をおかした時は責任を取らされる、とでもいった意味だろうか。今でも、この日本ではよく使われる。そして、この言葉が生まれた経緯については、三国志自体がビジネス書などで取り上げられることも多く、ほとんどの中年男性にはよく知られている。

 魏と蜀と呉が覇権を争っていた中国の三国時代。蜀ではすでに劉備は亡く、その意思を継いだ丞相・諸葛孔明が実施した5回にわたる北伐(魏討伐作戦)の第1回目となる西暦228年の「街亭の戦い」。予想される決戦地の地形を熟知する孔明から、出陣前に「決して山頂に布陣してはならない」と、厳しく戒められていたにもかかわらず、先鋒を務める馬謖は山頂に陣取り、魏の軍勢を迎え撃った結果、大敗北を喫してしまうのだ。そして、帰陣した馬謖の責任を明らかにし、孔明は彼を処刑した。

 孔明馬謖の抜群の才能を愛し、また信頼し、重用していた。しかし孔明は「昔、孫子が天下を制し、勝利を得ることができたのは、法の執行が明確であったからだ。天下が分裂し、戦が始まろうとしている今、もし法を無視したら、どうして逆賊(魏の曹操のこと)を討つことができるだろうか」と、馬謖を処刑したのだ。

 ただ、この兵法書孫子」には、こうも書かれている。「山中を行軍する時は必ず谷川に沿って進み、宿営する時は必ず視界の開けた高所に宿営し、敵が高所を占拠している時は攻め上ってはならない」とか「険阻な地形の戦場では、味方が先にそこに行き着いた時は、必ず高く展望の開けた場所を確保して敵を待ち受け、もし敵が先にそこを占拠した時は、近づくことなく撤去し、攻めかかってはならない」とも。

 好んで戦略戦術を論じ、兵法にも詳しかった馬謖が、この孫子の兵法を知らなかったわけがない。ということは、馬謖には彼なりの戦術があったはずだ。事実、彼は副将の王平に千人の兵を分けて麓に陣取らせ、魏軍を挟み撃ちにしようとしていた。それが思いもよらず、魏軍によって山頂の水の手を絶たれてしまい、水不足に陥った馬謖の主力軍は、切羽詰まった結果、麓で待ち受ける魏の大軍に向けて、自殺的に山頂から駆け下る道しか残っていなかったのだ。

 こんなエピソードが残っている。実は臨終に際して、劉備はわざわざ孔明に「馬謖は口先ばかりの男で、大切なことを任せるわけにはいかない。注意してくれ」と、遺言していたというのだ。しかし、孔明馬謖をあえて参軍(参謀)に取り立て、折に触れて馬謖を呼び出して意見を請い、いつも深夜まで話し込んでいたという。

 とすれば、孔明の涙は、秀才馬謖を悼んで流したものではなく、劉備に注意されていたにもかかわらず、なお彼の才能を過信していた己の不明に対するものではなかったのではないだろうか。ふと、そんなことを考えてしまった。

 そして、エピソードをもう一つ。

 その後、魏も蜀も呉も滅び、その内の魏の後を引き継いだ「晋」の史官・陳寿が書き記したのが「魏書」「蜀書」「呉書」で構成される「三国志」65巻。その「魏書」の中の「東夷伝 倭人の条」が、いわゆる「魏志倭人伝」である。

 そして、魏志倭人伝を書いた陳寿の父親は、何と馬謖の幕僚だったというのだ。そこでだが、命は許されたこの父親が、もし馬謖と一緒に処刑されていたら、陳寿は生まれることもなく、魏志倭人伝は誰か別の人物の手によることになり、そうすれば、邪馬台国についても、所在地がもっとスッキリ書き残されたかもしれない。こんなことも考えてしまった。