勝海舟の思い

 これまで全く知られていなかった人物を主人公にし、その上で、その主人公を取り巻く周辺人物として、歴史的によく知られている人物を間接的に描いていく。こんな手法も、歴史小説の世界ではあったのだなあ、と思わせる小説に出会った。諸田玲子の「お順 勝海舟の妹と五人の男」(上・下巻、2010年12月刊、毎日新聞社)を読み終えて、そう思った。

 この小説を読むまで、勝海舟に「順」という妹がいて、その順は佐久間象山正室となり、象山が京都で暗殺された後、信州・松代藩、いわゆる真田家では、反佐久間派の重臣達が「暗殺されるとは不届き千万」とばかりに佐久間家を取り潰した結果、お家再興を目指した子息は、新撰組に入隊して徳川家のために働き、後に新撰組を抜けて、最後は薩摩藩兵となり江戸に攻め上ってくる。すべてが多分、史実に沿っているのだろうが、ここら辺のことはまったく知らなかった。

 己の才知を過信するあまり、新しい時代の実現という情熱のみを抱き、無警戒に上洛し結果、暗殺された象山。対して、冷静沈着に状勢を見極め、時には日和見と言われても己の信念を隠し、行動を慎み結果、江戸の町を焼かれることもなく、また徳川家の家臣を駿府(後の静岡)に移住させ、明治という新時代への橋渡しに一役買った海舟。

 そういえば、昨年のNHKの大河ドラマ龍馬伝」では、象山を石坂浩二が、海舟を武田鉄矢が演じていたが、こういったところを微妙に演出できていたかどうか。武田鉄矢演じる海舟は、少し「親分肌」的なところや「大風呂敷」的な部分を出し過ぎていたような気もするが。

 それにしても勝海舟歴史的評価というか、多分に好き嫌いといったことになるのだろうが、評価は二分されるのではないだろうか。

 幕末のあの当時、徹底抗戦を主張し勘定奉行でもあった小栗上野介、あるいは五稜郭に立て籠もった榎本武揚などからすれば、海舟の行動は生ぬるく、分かりづらく、許せなかっただろうし、明治の世になっても、慶應義塾創始者である福沢諭吉は「やせ我慢が足らない」と言って生涯、批判し続けた。

 ただ海舟にすれば、幕府軍が戦術的には一時的に勝利を収めたとしても、時代の趨勢からして、最終的・戦略的勝利を得るのは困難だとの見通しがあったのだろうし、また、お隣の清国を見ても分かるように、戦乱が長引けば、イギリスとフランスの植民地になってしまうだろうという歴史的大局観もあったはずだ。それ故だろう。

 だとしても、海舟の評価は今一つ低い。私もそうだ。しかし、これは新撰組と対比すれば、よく分かる。徳川家に殉じた新撰組の「滅びの美学」。片や、明治になって政府の高官を次々と務め続け、伯爵にも叙された海舟。この「厚顔無恥」とでもいうべき生き様(明治政府の高官を務めたという点では、榎本も同様だが一時、彼は新政府に楯突いたということで数年、牢獄につながれた)が評価されないのだろう。とかく日本人は情に厚く、成功者(?)へのヤッカミも強い。

 海舟の晩年は暗い。政府高官という立場を活かし、15代将軍・慶喜の名誉回復や、旧幕臣の就労先の世話などに奔走し続けたが、子息や孫の不幸も重なり、気も晴れぬまま明治32年(1899年)1月に亡くなった。最後の言葉は「コレデオシマイ」だったという。

 で、というわけでもないのだが今、陰の総理大臣と言われる勝栄二郎・財務次官。霞が関では以前、海舟の曾孫だと噂された時期もあった。実際はどうなのだろう。