トンネルを抜けると「南国」だった

 小説は、まずエンターテイメントである必要があると思う。いかに多くの人に読まれ、そういった人々にいかに感動を与えるかが、その小説の評価軸の一つだろう。

 その意味でいうと、昭和の大作家・川端康成の「雪国」って、一体何だろうと思ってしまう。ハッキリ言って、そこに展開されている内容が、ストンと胸の内に落ちてこない。それはそうだろう。同書の新潮文庫版を見ると、編集部による川端康成の「年譜」が掲載されており、それによると、この雪国は昭和12年、川端康成38歳の時に刊行されている。今から70年ほど前だ。

 当時の人生観、あるいは恋愛観に基づかれて書かれた小説が、現代人の胸を打つことは難しい。あまりにも価値観が変わってしまっており、読み手としての自分に、その内容を重ね合わせることができない。特に、これも同書の後書きで「チャタレイ夫人の恋人」の翻訳で著名な作家・伊藤整が解説しているように「一般的に言えば、これは心理小説だ」。

 とすれば、この雪国という小説は、もはや小説として人々に読まれるものではなく「川端康成論」を論じる、あるいは研究する際の、一級資料といった類のものでしかあり得ない。紫式部の「源氏物語」を今、小説として楽しむ人は少ないだろう。源氏物語は今では、紫式部を研究する際の題材であり、平安時代の文学を研究する研究者の資料でしかあり得ない。

 川端康成は3歳までに父と母を亡くし、また10歳の時に姉を、15歳の時に祖父を亡くし以後、天涯孤独になってしまう。そうした境遇は当然、川端の小説に色濃く反映している。

 「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」。小説・雪国の有名な書き出しである。しかし実は川端は、こう書きたかったのではないだろうか。「国境の長いトンネルを抜けると、そこは太陽が燦々と輝く南国の地だった」と。一度は、こうした書き出しで始まる小説を書きたかったのではないだろうかと思ってしまう。

 しかし、川端にはそれができなかった。結局、最後は昭和47年、自らの人生に終わりを告げる自殺へと結びついてしまう。10代からの、人の温もりを感じることができなかった境遇が、人生をネガティブにとらえる川端自身を作り上げてしまったのだろう。

 小説の主人公である「島村」は、まさに川端そのものであったのだろう。そう感じてやまない。

 この前、久しぶりに2日間、伊豆半島を巡ってきた。頼朝が流された蛭ケ小島、また観光地図には出てこないが、北条5代の創始者・早雲が拠った韮山城。1490年代、その早雲が伊豆を平定するために攻め落とした堀越公方足利茶々丸室町幕府8代将軍・義政の弟・正知の嫡男)の堀越御所。また当時、伊豆地方に割拠していた関戸氏の深根城、狩野氏の狩野城などを、地図を頼りに自分の足で確かめてみたかった。しかし結局、大雨にたたられ、歩き回ることができず、いずれも次回の伊豆巡りに持ち越してしまった。

 そこで、とばかりに行ったのが天城峠。旧天城トンネルを体感し、「伊豆の踊子」や、さらに「雪国」に思いをはせた。そこで、川端について書いてしまった、ってことで。