「南無阿弥陀仏」も称えない

 五木寛之の小説「親鸞」(上・下巻、講談社、2010年1月刊)を読了。面白い小説だった。これまでにも、親鸞を主人公にした小説や戯曲は少なくない。吉川英治丹羽文雄津本陽などがいる。そして古くは村上浪六の伝記的物語もある。

 五木といえば、60年代末から70年代にかけて「売れっ子作家」だったが一時、休筆し、龍谷大学に学び以後、ここ10年ほどは、仏教的思想をベースにしたエッセーを発表していたので、小説の題材に親鸞を選んだことに取り立てて驚きはない。

 親鸞は、僧あるいは宗教者というより、恐ろしいほどの思想家だったと思う。師の法然が「『南無阿弥陀仏』と称えるだけで、阿弥陀仏がわれわれ凡夫を浄土(極楽世界)に迎えて下さる」とした思想の中から、「修行」(努力)という残滓を完全に切り捨ててしまった。

 法然は、こう考えた。人間の側に「努力」が要求される限り、必ずそこに落ちこぼれが生じる。努力できない人間がいるからだ。だとすれば、そういう人間は救われないことになる。しかし、仏の慈悲が完全であるためには、一人の落ちこぼれもあってはならない。ということは、人間の側の努力は必要でなくなる。つまり、人間は「無力」であってよい。その無力な人間を仏が救うのだ。それが「他力」の思想である。

 仏の方から働きかけて、無力な人間を救うのである。従って人間は何もする必要がない。さらにその上で、南無阿弥陀仏という念仏を称えることもなく、ただ阿弥陀仏を信じ、すべてを阿弥陀仏に「お任せ」すればいい。親鸞がたどり着いた念仏の思想は、そのような「絶対他力」の理論であった。

 小説自体は、それまでの京や奈良を中心とした旧・仏教界の反発により、その意を受けた朝廷によって、法然が土佐へ、親鸞が越後に流罪になるところで終わっている。いい終わり方だと思う。以後の親鸞は思想家としての側面が強く、思想家を小説仕立てで描くのは、非常に困難な作業になる。

 ちなみに親鸞は、無罪放免になっても京へは帰らず、30代、40代、50代を関東での布教に明け暮れ、62歳になってやっと生まれ故郷の京へ帰り、90歳で亡くなっている。

 親鸞は、平安時代末に京の下級貴族の息子として生まれ、10歳頃から比叡山で修行し、20代半ばになって、その比叡山での修行に疑問を感じていた頃、京の清水辺りで「南無阿弥陀仏」を説いていた法然の弟子になった。そして、鎌倉時代の中期頃までを生きた。

 今の日本の状況は、これまでのように努力一辺倒ではやっていけなくなっている。努力すればするほど、ますます地球の資源は枯渇し、温暖化は進む。生き方を変えなければならない。しかし、多くの日本人にとって、親鸞的「お任せ」の生き方は無理だろう。とすれば、同時代の、もう一人の思想家である道元の「禅」の道に学ぶのがいいかもしれない。