清盛、人気がないね〜

 今年のNHK大河ドラマ平清盛」の視聴率が冴えないようだ。3月11日に放映された第10回は知らないが、前週の4日については視聴率が13・4%だったことが、ビデオリサーチの発表で分かった。昨年、放送された「江〜姫たちの戦国〜」では、13%台は8月14日放送分(13・1%)の1回だけで、これがワーストだった。平清盛は2月12日に続き、早くも2度目の13%台だ。

 この不人気ぶり、分からなくもない。と言うのも、数十年にわたって大河ドラマの熱心なファンである私自身、今年はまだ一度も観ていない。理由は簡単。1月の初回放送日、新聞のテレビ番組欄で「清盛は白河院のご落胤」だ、と紹介されていたことによる。で、「アッ、そのストーリー展開か」と思い、そしてさらに、ということは、あの複雑怪奇な「保元の乱」と「平治の乱」も避けて通らないのだろう、と重苦しくなり、観るのを躊躇してしまった。

 さほど、保元の乱平治の乱前後の日本の歴史は分かりにくい。天皇家、藤原摂関家を始めとする貴族階層、それに平氏と源氏。さらには、そこに様々な女性が加わり、この相関関係をキチンと理解するのは、はなはだ困難を要する。
 
 例えば、清盛の生母とされる祇園女御は、白河院の寵愛を受けて懐妊した後、清盛の父である忠盛に下賜されて清盛が生まれた、と「平家物語」に書かれている。しかし、平家物語の成立は鎌倉時代以降であり、祇園女御は当時、40歳を超えていたとも言われており、真偽のほどは、今もって明らかではない。

 また、そもそも保元の乱に至ったいきさつとは、こうだ。

 白河院は寵愛していた藤原璋子(しょうし)を、自分の孫である鳥羽天皇に押しつけて中宮にした上で、その後も璋子とは閨を共にし続け、やがて、後の崇徳天皇が生まれた。しかし鳥羽にしてみれば、表向き自分の子であるが、誰がみても、崇徳は祖父である白河院の子である。実際、鳥羽は崇徳をおじさんであり、子供でもある「叔父子(おじご)」と呼んで、側に近づけず嫌っていた。

 そして白河院崩御の後、鳥羽院政が始まったのであるが、鳥羽がいつまでも崇徳を天皇にしておくはずはなかった。強引に退位を迫り、自分の本当の子である親王に譲位させた。これが近衛天皇である。崇徳は天皇から上皇(院)となった。しかし近衛が1155年7月、若くして崩御すると、鳥羽は崇徳の子を差し置いて、あの璋子が自分との間に産んだ実子を皇位に就けた。これが有名な後白河天皇である。崇徳の鳥羽や後白河に対する恨みは大きく、これが保元の乱につながった。

 敗北した崇徳は土佐に配流され、その地で恨みを飲みつつ亡くなり以後、「怨霊」となったとされている。天皇家120数代続く中で、唯一と言ってもいい「怨霊になった天皇」である。

 ということで今、崇徳を始め後鳥羽や後醍醐など恨みを飲んで亡くなった天皇を取り上げた「怨霊になった天皇」(竹田恒泰・著、小学館)を読んでいる。著者は昭和50年生まれ。現在、慶応大学の講師も務めているが、旧皇族の竹田家の出。

 実はこの竹田家もまた、数奇な足跡を刻んでいる。教科書的には全く知られていないのだが、明治維新の時、東北雄藩が同盟を結成し(奥羽越列藩同盟)、明治天皇の叔父にあたる輪王寺宮能久(りんのうじのみやよしひさ)親王天皇に擁立し、明治天皇を立てようとする薩摩、長州と対抗した。

 結局、仙台藩庄内藩を中心とした奥羽越列藩同盟は敗北し、能久親王は京都の朝廷に謝罪し、許され、後に親王は北白河宮を継ぎ、明治19年に大勲位を受けた後、明治28年、近衛師団長として、皇族としては初めて外国(台湾)で戦死している。

 そして、この能久親王の長男が竹田宮を創設し、明治天皇の第6皇女と結婚、恒徳(つねよし)親王をもうけた。この恒徳親王の孫が筆者である。

 してみると、筆者である竹田氏は男系で能久親王、女系で明治天皇の玄孫にあたるが、それよりも、天皇になろうとした能久親王の系統であるということに、なぜかしら崇徳天皇を重ね合わせてしまう。