維新遷都計画、かくて首都は大阪に

 大阪「都構想」や維新政治塾の盛り上がりを見ていると、この国の首都を大阪に移し、人心を一新して、新たな時代を迎えてもいいのではないかと思ってしまう。実際、過去には国会でも首都移転が積極的に議論された時もあったのだから、そんなに突飛な話でもない。

 古代はさておいて、実はあまり知られていないが、この国で、大阪に遷都しようとした時が一度あった。明治維新が始まった慶応4年(明治元年、1868年)1月のことである。

 前の年の慶応3年10月に、徳川15代将軍・慶喜大政奉還し、12月には王政復古の号令によって、天皇を中心とする新しい政治体制が天下に布告された。そして、年が明けた慶応4年の1月3日に、鳥羽・伏見で戊辰戦争の幕が切って落とされ、6日には慶喜が海路、江戸に逃れ、この京都での戦いは新政府側が勝利。その後、17日には早速、新しい官制が定められ、有栖川宮熾仁(ありすがわのみやたるひと)親王を総裁とする新政府の体制が整備された。

 そして、それから6日後の1月23日、新政府の廟議(朝廷の評議)において「遷都」が討議され、この時、薩摩藩大久保利通によって「大阪遷都建白書」が提出されたのである。目的は「千年の都」の古い慣習を捨て、新しい天皇親政の国家を確立することであった(余談だが当時、薩摩藩の下級藩士であった大久保が、ここまでの「国家ビジョン」を持っていたことには、改めて驚いてしまう)。

 しかし、当然のことながら大阪遷都計画は難航する。明治天皇の外祖父にあたる中山忠能(ただやす)ら公家を中心に反対論が渦巻き、議論は大いに紛糾した挙げ句、大久保の大阪遷都案を否決してしまう。それでも、遷都論は以後も繰り広げられる中、4月に入り、後に日本の郵便制度を創設した前島密が、正式に江戸遷都案を提出したことで、一気に江戸遷都へと流れは傾いてしまった。

 そして、この年の9月8日に、慶応から明治へと改元され、20日には明治天皇京都御所を出発し、10月13日には江戸城に入城、東京城と改称して皇居とした。

 しかし、ではこの時に、正式に東京が首都になったのかというと、そうではない。日本の首都は「この日から東京に定める」という「遷都宣言」は、今現在に至るまでも行われていない。それは当時、遷都に反対する公家などに配慮して、また、なお函館などで続いている戊辰戦争の状況などを考慮して、あくまでも遷都という明言を避け、天皇の「行幸」という形で行われたからだ。

 いわば、天皇は「いまだに東国へ旅行されている」という状態が続いているのである。と、すれば、大阪遷都はそれほど難しくもないと思うのだが。どうだろう。