「虞美人」と丸ちゃん

 「立てばシャクヤク 座ればボタン 歩く姿はユリの花」。今となってはもう誰も口にしないが、昔は美人を例える際によく使われた。私自身、ボタンとユリの花は知っているが、シャクヤクは知らない。見たことはあるかもしれないが、これがシャクヤクだ、と意識して見たことはない。

 しかし洋の東西を問わず古今、やはり、美人は花に例えるのがいいのだろう。そういう意味では「虞美人草(ぐびじんそう)」という花がある。ただ、この虞美人草なる花は謎だらけで一応、ヒナゲシが充てられているが、本当にそうなのかよく分からない。「伝説の花」なのである。

 昔、中国に「虞美人」という有名な美女が存在した、という。時は始皇帝の死後、秦王朝が崩壊し、項羽と、後に「漢王朝」を築いた劉邦が覇権を争っていた紀元前の中国においてである。

 さすがに、長きにわたる両者の戦いにも終止符を打つ時が来、劉邦の軍に囲まれた項羽が、周りから聞こえてくる楚兵の歌に、「ああ〜、自分の出身地である楚の人々も我を囲んでいるのか」と嘆き、敗北を悟ったのは有名な話である。つまり、これが「四面楚歌」のいわれだ。

 で、この時、人生の最後を迎えた項羽が「力は山を抜き 気は世を覆う〜(中略)〜虞や 虞や 汝を如何せん」と歌ったことで、この「虞」なる人物は女性で、項羽の愛妾であったのだろうと、これまで歴史的には思われてきた。

 こういうことだ。

 漢の時代になって、司馬遷によって書かれた「史記項羽本紀には「美人あり 名は虞 常に幸せられて従う」とある。つまり、この女性は「姓は分からないが、名は虞という美しい女性」ということになる。ただし、これが後漢の時代、班固によって書かれた「漢書」項籍伝では「美人あり 姓は虞 常に幸せられて従う」と書かれている。こちらに従えば「名は分からないが、姓は虞という美しい女性」となる。

 名が虞なのか、姓が虞なのか、どちらが正しいのであろう。史記にも漢書にも、虞美人なる女性の記述は、この「垓下(がいか)の戦い」の1カ所にしか登場しないので分からない。

 しかし、それ以上に気になるのは、果たして虞と呼ばれた人物が、本当に項羽の愛妾とも思われる女性だったのか、ということだ。

 司馬遷史記を著した際「虞や 虞や」の歌だけが資料として存在した。そこで、さて、この虞とは誰なのか。男か女か、幼児か美女か、と考えた司馬遷が「美女が似つかわしい」と判断し「虞という名の美女」として、項羽本紀に記したのかもしれない。

 だから、虞美人とはあくまでも司馬遷の解釈であり、本当は虞とは、項羽のまだ幼かった息子であった可能性もある。劉邦軍に包囲され、逃げ道がなくなった項羽が「幼子よ、お前もここで死ななければならないのか」と歌った、嘆きの歌であったかもしれないのだ。

 だからこそ、班固は司馬遷の解釈に疑問を感じ、わざと反対の「虞は姓としてだって成立しますよ」と書いてみせ、そうすることで、「この部分は司馬遷の解釈だから気をつけて下さい」と、暗に後世に注意を促した可能性だって残る。

 伝説の美女・虞美人は存在したのか、今となっては確かめようもない、ってことで、丸ちゃん、超美人なんてほとんどこの世に存在しないのだよ。これって、慰めにもならないか。