異民族が標榜する中華帝国

 中国って国(正確には中国大陸の統一政権)は歴史上、国力が充実してくると必ず、今で言うところの「覇権主義」で領土拡大に走る。

 古くは「隋」の煬帝による高句麗への3度の侵攻(この無理な負担により隋は滅んだ)。そして、その後を継いだ「唐」の太宗(李世民)はとうとう高句麗を滅ぼした(実際は太宗の死後、その前には百済も滅ぼしている)。

 以後も大陸の王朝を見ると、「元」は中央アジアからヨーロッパへと侵攻し、ユーラシア大陸に空前の大帝国を築く一方、東に向かっては、高麗侵攻と日本へも2度襲来(元寇)した。また「清」の第6代・乾隆帝による「十全武功」と呼ばれる、都合10回にわたる東南アジアやネパール方面への外征は有名である。ちなみに現在の中国の領土というのは、この乾隆帝時代に確立された国境線がほぼ踏襲されている。西暦1700年代の前半、日本では徳川第8代将軍・吉宗の時代のことだ。

 これまで、こうした各王朝の対外政策は、世界の中心は我々だという「中華思想」に基づくものと理解されてきた。しかし、覇権に走るこれら各王朝の出自をたどると、いずれも漢民族ではなく、異民族であるという事実に突き当たる。隋と唐は厳密に言えば北方民族の「鮮卑拓跋(せんぴたくばつ)系」であるし、元はご存じのようにモンゴル族、清は女真族である。

 では、漢民族による王朝はどうだったのだろうか。

 その前に「秦」以降の大陸の主な統一王朝を振り返ると、秦→漢→(新)→後漢→(魏・晋)→隋→唐→宋→元→明→清→(中華民国)→そして今の中華人民共和国となる。

 始皇帝の「秦」滅亡後、紀元前202年に成立した「漢」王朝は、朝鮮半島楽浪郡などの出先機関を置きはしたものの、基本的には第7代・武帝時代に見られるように、北方の強大な「匈奴」による侵攻との戦いに明け暮れ、翻弄され続けた。

 そして、907年に唐が滅びた後、さまざまな小王朝が興亡を繰り返す「五代十国」時代の約70年を経て成立した「宋」は、五代十国時代武断政治だった反省に立ち、「文治主義」を基本にした。故に、晩年は北方に興隆した契丹族の「遼」に、続いて女真族の「金」に、今の北京を中心とする北部地域を奪い取られ、「南宋」として揚子江あたりで命脈を保ったものの、最後はモンゴル族の元に滅ぼされた。

 また、元の後に成立した「明」は争いを求めず、各国とは「朝貢貿易」を求め、積極的に外交を行った。その最たるものは、3代・永楽帝時代に行われた「鄭和の西洋下り」と呼ばれる、インドやアラビア半島に向けた大船団による大航海である。1405年から始まり、最後となる7回目(1431年)は第5代・宣徳帝の時だった。第5回以降はアフリカ大陸にまで足を延ばしている。日本では室町幕府の全盛期の頃のことだ。1492年のコロンブスより、先にアメリカ大陸を発見したという異説すらある。

 単眼的ではあるが、このように見ると、漢民族って本当は友好と通商を重んじる(良い意味での中華思想)民族なのだ。であれば、今の中国はこのDNAが、共産主義という魔物によって変質してしまっているということなのだろうか。日中関係が険悪になる中で最近、こんなことを思っている。